茨城県

常陸・藤沢城~万里小路藤房【小田氏治の戦歴を詳しく】

常陸・藤沢城

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常陸・藤沢城

常陸・藤沢城(ふじさわ-じょう)は、茨城県土浦市藤沢にある比高20mほどの丘城
常陸・小田城小田氏の領地にあるため、藤沢城は支城と言う事になる。
ただし、戦国時代までにだいぶ拡張され、

万里小路藤房

鎌倉時代末期の公卿・万里小路 藤房(までのこうじ-ふじふさ)は、後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画。
1331年、後醍醐天皇は三種の神器を保持して笠置山にて挙兵した。
しかし敗れて敗走すると、万里小路藤房は鎌倉勢に捕まって流罪となり、1332年4月に常陸・小田城の小田治久に身柄を預けらた。
小田治久は、藤沢藤房(万里小路藤房)を、支城の常陸・藤沢城近くに住まわせた。(藤原藤房卿遺跡)
その後、鎌倉幕府は滅亡し、1333年6月、藤沢藤房(万里小路藤房)と小田治久は一緒に上洛し、万里小路藤房は復官している。
鎌倉幕府側だった小田治久は、後醍醐天皇の許しを得るため藤沢藤房(万里小路藤房)に弁明を頼んだようで、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を受けて治久になったとされる。
そのため、後醍醐天皇が足利尊氏と対立すると小田氏は南朝に味方し、北畠親房を常陸・小田城に迎えたため、1339年に高師冬(こう の もろふゆ) が小田城を攻撃したので、小田氏は北朝に降伏した。


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小田氏治の戦国時代

小田氏治の頃の常陸・小田氏の一族は下記の通り。

宍戸城:宍戸安芸守 1万石
石岡・堀ノ内館(小幡館):小幡中務少輔 7000石
牛久城:岡見治部少輔 1万4000石
柿岡城:柿岡式部少輔 1万石
常陸・北条城:北条出雲守治高 8000石
谷田部城:谷田部刑部少輔 5000石

他には重臣として下記の通り。
土浦城 : 菅谷政貞 1万石
常陸・藤沢城 : 菅谷勝貞 6000石
真壁城 : 真壁久幹 2500石 (寝返り後4500石)
下総・豊田城 : 豊田治親 5000石
海老ケ島城 : 平塚長信 3000石
常陸・水守城 : 水守民部 1200石

小田氏最盛期の領地

戦国時代の1548年、18歳の小田氏治が家督を継ぐと、結城政勝の家臣・水谷治持の調略にて真壁城の真壁久幹が結城氏に離反。
更に結城政勝は下妻城主・多賀谷政経を降伏させて勢力を拡大した。

なお、頼りになる重臣・菅谷勝貞の土浦城には、信太範宗の3男で前沢家に養子に入っていた信太重成が入ったとされる。
そして、菅谷勝貞(菅谷摂津守勝貞)と菅谷政貞の父子は土浦城から常陸・藤沢城に移り、宍倉城は菅谷一族の菅谷隠岐守がそのまま在城した。
桜川に通じる水堀も伸びており、常陸・小田城~常陸・藤沢城~土浦城と水運での連絡が取れていたと考えられる。

1555年、小田氏治は常陸・太田城佐竹義昭に援軍を頼み結城政勝を攻撃。
対して結城政勝は、1556年に北条氏康から援軍を得て、武蔵・岩付城の太田資正江戸城の遠山綱景らと共に海老ヶ島の戦いにて小田氏治を撃破。
小田氏治は、海老ヶ島城だけでなく本拠の小田城も奪われ土浦城に逃れた。(1回目の落城)
その後、子の小田友治を人質に出して北条氏康と和解すると、結城勢から常陸・小田城を取り戻している。


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1557年2月下旬(1558年?)、佐竹義昭が下妻城の多賀谷政経と共に織田勢の平塚自省が守る海老ヶ島城を攻撃。
小田氏治は下妻城への攻勢に出たが、多賀谷政経の援軍として佐竹義昭に背後を突かれ、黒子の戦いで敗北し小田氏治は土浦城へ逃れている。(2回目の落城)

1558年、菅谷政貞が古河公方の援軍として出陣。
1558年5月、多賀谷勢が石毛に進攻しており、豊田城の豊田治親が小田氏治に援軍を要請。
小田勢の菅谷左衛門(菅谷政貞)・沼尻又五郎(沼尻家忠)、戸崎氏ら900が駆け付け多賀谷重政を撃退したのでこの事か?

1559年4月、土浦城主・菅谷政貞が小田城を奪回。
<注釈> 常陸・坂戸城の信太頼範が小田城を奪回したともあるため、菅谷政貞ら小田氏の家臣が奪還した可能性も。

1559年8月、宿敵・結城政勝が死去すると結城城を攻撃したが、小山高朝(結城政勝の実弟)や真壁氏幹の抵抗を受けて撤退。
このとき、小田氏治は反撃を受け、9月に常陸・北条城を結城氏に奪われ、海老ヶ島城も平塚自省が討ち死にして落城した。

1560年、春日山城上杉謙信が関東に出兵すると、小田氏治ら多くの諸将は上杉氏に臣従。
小田氏治は佐竹義昭・小山秀綱と共に北条氏に従っていた結城晴朝を攻撃して降伏させた。
上杉謙信の小田原城包囲にも小田氏治は参じたほか、海老ヶ島城の奪回のため宍戸入道に攻撃させている。
その後、上杉勢が越後に戻ると、1562年6月、北条氏康に再び臣従。
その頃の1562年、水戸城主・江戸忠通の攻撃を受けた際に土浦城の信太重成が討死し、菅谷政貞が土浦城に復帰。

小田勢は常陸・府中城の大掾貞国などを攻撃し、1563年2月、佐竹義昭の留守を突いて大掾貞国を破っている。
この行為を、1564年4月、佐竹義昭・宇都宮広綱・真壁氏幹らは連署で上杉謙信に報告したので上杉勢の攻撃目標となって山王堂の戦いへ発展した。

上杉謙信(上杉輝虎)は、新発田重家・柿崎景家・山本寺定長・色部勝長中条藤資・竹俣清綱・北条高広・河田長親ら総勢8000。
小田氏治は菅谷政貞を先鋒として3000にて小田城を出発するも大敗を喫し小田城に退却。

小田氏治は、夜陰に紛れて数十騎で常陸・藤沢城へ逃れた。

常陸・藤沢城

老臣・信太掃部介頼範(信太治房)が小田城にて最後まで戦った。
小田氏治が無事に藤沢城に入ったと聞くと討死したと言う。
菅谷政貞の子・菅谷政頼も討死した。(3回目の落城)

その後、小田城は佐竹義廉(北義斯)が守備したが、佐竹義昭が死去すると信太氏(しのだ-し)が妻子らと降伏すると見せかけて、1565年12月に小田城を奪還。(信太氏が妻子らは処刑されたともある)
しかし、1566年2月、上杉謙信が再度出兵したため、再び小田城から敗走した。(4回目の落城)

それでも、小田氏治は諦めなかった。
1568年、結城晴朝の仲介で上杉謙信に屈服すると、常陸・小田城の城壁を修復しないという条件で小田城に復帰している。(これはスゴイ)

1569年5月、佐竹義重(佐竹義昭の子)が進軍してくると、小田氏治は野戦にて撃退。
1569年11月、太田資正の常陸・片野城を攻撃したが、真壁氏幹の反撃にて敗退している。
1570年10月、結城晴朝と多賀谷重経(多賀谷政経の子)ら6000と、平塚原の戦いになったが、常陸・藤沢城の菅谷政貞ら3000が、兵力に劣りながらも大勝。
これにより、小田氏の名が関東に轟いた。
ただし、佐竹義重の家臣・多賀谷政経によって谷田部城が陥落している。

梶原景国と真壁道夢の誘いを受けて、常陸・小田城の北条治高が佐竹家に寝返ったともされるが、大晦日からの宴席(忘年会・新年会)が続いた1573年元旦の明け方、佐竹勢の太田資正が小田城を急襲。
油断していた小田氏治は小田城を捨てて敗走した。(5回目の落城)
小田氏治はすぐに5500の兵を集めて、1573年2月の大雪の日に急襲して小田城を奪回。
そのため、佐竹義重は下妻城の多賀谷重経に小田勢の常陸・大島城を攻撃させ、多賀谷勢の智将・白井全洞の活躍にて城主の平塚周防守が討ち死にしたが、小田勢は夜襲で大島城を奪還している。

しかし、佐竹義重・太田資正との手這坂の戦いにて信太兵庫・田土部弾正ら300が討死して敗れると、小田城は真壁勢に突かれ、小田氏治は土浦城へ敗走。(6回目の落城)
<注釈> 木田余城の信太治房(信太掃部助治房)が敗戦の責を負って自刃したともある。


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太田資正(太田三楽斎)は常陸・小田城の城主となり、子の梶原景国と北条治高に、常陸・藤沢城を攻撃する軍勢を任せている。

この際に、小田勢は砦台の戦いで激戦となって敗れるも、小田氏治が自ら出馬して佐竹勢を破り、梶原景国・北条治高は小田城へ逃げ帰ったと言う。(藤沢城初防衛3回目)
こうして小田城奪回のため、小田氏治は常陸・藤沢城に入った。
<注釈> 小田氏治が藤沢へ、小田守治は土浦城にともある。

1573年4月、佐竹勢は再び常陸・藤沢城に押し寄せたが、小田氏治は田土部川の戦いで、佐竹勢の梶原景国・北条治高・真壁久幹らを撃退している。(なんだかんだ言って逆境に強いかも?)(藤沢城防衛2回目)
更に、多賀谷政経が豊田治親の守る下総・豊田城の攻撃すると、小田氏治は援軍を派遣して、金村台の戦いで勝利している。

佐竹勢が宍倉城の菅谷貞次を下し、常陸・戸崎城も落とすと、8月頃、小田氏治は防御が弱い藤沢城から土浦城に移って佐竹勢に備えた。
この時、従わなかった土浦城主・信田和泉守を誅殺したともある。
1573年9月、常陸・藤沢城と土浦城が佐竹勢から攻撃を受けた。
藤沢城には太田資正・梶原景国の父子が来襲。
土浦城には北条治高と真壁久幹が押し寄せているが、藤沢城も土浦城も撃って出て勝利している。(藤沢城防衛3回目)
そして、小田勢は君島川の戦いで佐竹勢を破り、常陸小田城と常陸・北条城に迫ったが、佐竹勢の援軍が駆けつけ奪回には至らなかった。
11月、佐竹勢は、太田資正・梶原景国・北条治高・真壁氏幹ら2000にて藤沢城を落としている。(藤沢城初陥落)

1573年12月、佐竹勢は土浦城も総攻撃したが小田勢は奮戦し年越し。
明けた1574年1月、佐竹義重は車斯忠(車丹波守)を大将として援軍を派遣すると激戦となり菅谷正光、由良成繁、岡見宗治、沼尻家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、雨宮、天野、吉原、木村、石堂など多くの小田家武将が討ち死。
2月、小田氏治は夜に脱出して片岡治部左ヱ門の金田中館城(筑波・中館城)に逃れ、野中瀬鈍斉、沼尻播摩守らは土浦城と運命を共にした。
<注釈> 筑波・中館城は場所不明。片岡上館や常陸・金田城のことか?

また、重臣の菅谷政貞と菅谷範政は佐竹氏に臣従した。
行方城も佐竹義重に攻められて落城するなどし、小田氏治は土岐氏を頼って江戸崎城へ逃れたともされる。
菅谷政貞の子・菅谷範政が佐竹氏から寝返り、北条勢の北条氏房が土浦城を奪還すると、小田氏治は木田余城へ移った。

その後、1577年、小田原城の北条氏政は、大道寺政繁、山角氏などを送って梶原政景の守る小田城を攻撃したが、佐竹勢の援軍によって奪還には至らなかった。
小田氏治は千葉氏・相馬氏・江戸氏の援軍も借りて手子生城(てごまるじょう)を奪い返して入った。

この頃、小田氏治は木田余城に飯塚美濃守、土浦城に菅谷政貞、海老ヶ島城に平塚弥四郎を守らせているため、完全に領地を失ってはいない。
また、小田家の軍師とされる手子丸城の天羽源鉄が策略をもって太田資正・梶原政景などに対抗しており少しずつ失地を回復していたようた。


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1578年4月、上杉謙信が死去。

1578年7月、梶原政景が木田余城を落としたが、土浦城の菅谷範政(菅谷政貞の6男)が奪回している。
しかし、再び佐竹勢が木田余城を陥落させた。

1580年8月、北条氏政は弟・北条氏照北条氏邦に3000を預け、忍城主・成田長氏、皆川広照・大道寺政繁らを先陣に小田勢の案内で谷田部城を落としている。
ただし、多賀谷重経が谷田部城を攻撃。
岡見治部・月岡玄蕃・由良信濃守成繁・同判官憲綱・平井手伊賀らが防衛したが、谷田部城は奪い返された。

筑波郷土史などによると、1583年2月13日、浦城にいた小田氏治は孫の小田金寿丸を人質に差し出して佐竹に降伏したとあるが、これは疑問視されているようだ。

1585年、小田氏治は常陸・藤沢城を奪回。(藤沢城初奪還)
1586年春、結城氏から独立して佐竹勢になった下妻城の多賀谷重経によって小張城を失ったが、足高城の防衛には成功している。

1588年9月下旬、佐竹義重が3000にて攻め寄せると、1000の小田氏治は手子生の戦いで敗れ、手子生城に逃れた。
11月、佐竹勢の真壁氏幹が常陸・藤沢城を攻撃。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めのなか、小田氏治は小田城奪回のため城外の樋ノ口に布陣。
しかし、佐竹勢は梶原景国・梶原資胤の兄弟らが討って出て樋ノ口の戦いとなった。
小田勢が優勢だったが、常陸・片野城の大田資正が駆けつけ、敗れた小田氏治は手子生城に戻った。

これらの経緯もあり小田氏治は豊臣秀吉のもとに参じなかったので、北条氏の滅亡と共に所領を没収されている。

1591年8月10日、小田氏治(小田天庵)は浅野長政を通じて会津で豊臣秀吉に謝罪すると許されて、結城秀康の客分として300石を与えられている。

小田氏に忠義を尽くした菅谷政貞は1592年に死去。
子の菅谷範政は、浅野長政によって江戸城に入った徳川家康に推薦され、上総国の平川邑に1000石にて徳川家の家臣となった。
のち手子生城5000石となって徳川家の旗本として存続している。

今回、予定外の訪問となったので遠景だけの撮影に留めた。
藤沢城から西にある法雲寺の本堂左上のほうに小田氏治天庵墓所があるようなので、今度再訪しようと思う。


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ひとつだけ疑問なのは、上杉勢・佐竹勢・真壁勢を迎撃するのに、なぜ多気山城を使わなかったのか?
常陸・北条城の北条氏高(北条治高)が佐竹に寝返っていたので、使えなかったと言われればそれまでだが、筑波で一番の要害は常陸・多気山城だと感じる。
水が出ず籠城に向かなかった可能性はあるが・・・。

交通アクセス

土浦駅の西口より関東鉄道バス「筑波山口」または「下妻駅」ゆきバスに乗車し、藤沢バス停下車の徒歩約10分。
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

このあとは、念のため常陸・小田城に向ったが、もう5度目になる。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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