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小田原城の解説【日本100名城】城好きであれはココも見ておきたい戦国期の城跡

小田原城




小田原城とは

小田原城(おだわらじょう)は、別名を小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館)とも呼ばれる平山城です。
国の史跡で日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。

もとは、相模の豪族で土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館(小早川村)であったとされています。
南北朝時代になると、1416年からの上杉禅秀の乱で、土肥氏が失脚し、駿河から大森憲頼(おおもり-のりより)が小田原に入りました。
しかし、今の小田原城は築城していないようで、近くの花岳城を居城としたようです。

その後、小田原城は、北条早雲が奪ってから、戦国時代の北条氏の本拠地として整備が始まりました。
特に、北条氏康の時代には、上杉謙信、そして武田信玄の大軍をもっても陥落しなかった名城ですが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、20万の大軍に包囲され、北条家が降伏したのは皆様良くご存じの所だと思います。





そんな小田原城ですが、現在、天守閣がある城域は、徳川家康が関東を与えられてから、江戸時代に整備された部分でして、戦国時代の北条家は、実は別の場所を「小田原城」としていました。

その戦国の古い時代の小田原城遺構をちょっと見て参りましたので、最新の発掘によりわかった新しい解釈も踏まえて、ご紹介させて頂こうと存じます。

北条家の小田原城は違う場所にあった

小田原市がこれまで発掘調査し、出土した茶碗や銭などの遺物の年代から、戦国時代の小田原城は、現在天守閣がある場所では無く、新幹線より北西側となる、小高い丘上にあったことが判明しています。
すなわち、1495年頃に、伊豆の北条早雲が、大森藤頼から小田原城を奪った際には、この小高い丘の上が小田原城であったと推定されています。
下記のYahoo!地図をご覧頂けると、わかりやすいですかね?

小田原高校がある場所の周りが山の上でして、東曲輪、本曲輪、西曲輪、藤原平、毒榎平と連なる連郭式の平山城であったことが分かります。
ただ、現在は住宅地になってしまっており、良好な遺構は残っていないため、明確にはどこが本丸だったのか?は、古い小田原城(八幡山古郭)の中から、特定には至っていないようです。
小田原高校は標高69mくらい。城山陸上競技場で標高71mくらいですね。
上記地図を見る限りは、競技場の場所と、小田原高校の付近の「城山3」とある場所が本丸だったとも推測はできます。
だいたい標高80mくらいの丘で、そこに現在、何があるのか調べて見ましたら「小峰配水所」があるそうです。ボッチをつけておいた場所です。
すなわち、この付近に水道を供給するのに、一番高所のところと言えるでしょうから、恐らくはこの場所が、古い時代の小田原城の本丸だったと私は考えております。(御殿は高校のところ?)
西側の蓮船寺の脇には、南北に延びる大きな線がありますが、これは大堀切です。地形図でも明確にわかりますね。
あと、小田原高校の校舎と東側のグランドの間には2002年の発掘で「障子掘」があったことも分かっています。(現在は埋め戻されている)





しかし、実際問題、戦う場合でも、平時の政務でも、この本丸の場所は、あくまで遠望が利く監視所のような役割でして、敵が攻めて来た際には城山陸上競技場や、小田原高校、城山中、城南中、そして現在天守閣がある小田原城の郭にも兵を配置して、防御を固めたものと推測致します。
小田原駅にほど近い城山中の場所は「八幡曲輪」だったと伝わっており、小田原高校が「藤原平」、「鍛冶曲輪」は城山庭球場、「毒榎平」は貯水池となっているそうです。
そして、城山3丁目の13番地~15番地の段丘部分が「旧本丸」と言われているのですが、ここですと背後の山の方が標高がありますので、かなり昔の時代の本丸、すなわち大森氏が治めていた頃の本丸のような気がいたします。
そのように考えますと、北条氏が小田原城を改修する度に、本丸も更に標高が高い所へと、何度か移ったような気も致しますし、どこが最重要拠点の本丸と言う事はなかったのかも知れません。
敵に攻め込まれた際、残すところが本丸だけと言う状況にまでなると、ほぼ敗北するしかないので、築城上手な北条家の考えからだと、連郭全体で守ろうと言う意識があったのかな?と感じずにいられません。
 
八幡山古郭東曲輪

上記写真は、公園化された八幡山古郭東曲輪です。
山の斜面に高層マンションが建設される予定地だったと聞きますが、小田原市が買い取ったようです。
各写真はクリックすると拡大します。

八幡山古郭東曲輪

上記はその旧本丸があったとされる丘を東曲輪から撮影したものです。

八幡山古郭東曲輪から望む小田原城

上記は八幡山古郭東曲輪から撮影した現在の小田原城方面の展望です。
江戸時代には向こう側が小田原城の本郭となりました。
不便な山に城はもう不要となった平和な時代ですからね。

本曲輪高台土塁

上記は小田原高校脇の本曲輪高台土塁です。写真ではわかりにくいと思いますが・・。
そして、特筆すべき点は、Yahoo!地図で「小田原城山サニーハイツ2」とある近くに、現在、神奈川工科大学の工房が建っているのですが、そこから巨大な障子掘が2005年に発掘調査されていることです。
現在はもう埋め戻されていますので、こちらのサイト様の写真などをご覧ください。






 
小田原高校のグランドなど、このように小田原城にも障子掘があったことは驚きです。
恐らくは、豊臣秀吉に対抗する為、だいぶ後になってから改修されたものと推測致しますが、北条家の築城能力の高さを改めて思い知らされます。
戦国時代の関東の城には石垣はほとんど用いられなかったと言うのに、2011年の調査では小田原城の障子掘に「石垣」も用いられていた事が確認されたと言う事です。

更に奥部を見る為に、再訪して参りましたので、写真などを追加致します。

小田原城

城山の西端部にある巨大な土塁です。

小田原城の大堀切

小田原城の大堀切

上記の写真は2枚は、小田原城最大の大堀切です。

小田原城の大堀切

上記はその大堀切を端っこから撮影したものです。
ずっと向こうまで続いている、大規模な堀切ですね。

小田原城

小田原城跡

上記のように、山の上には、古い小田原城の曲輪跡などもたくさんあるのです。

下記は、新しく復元整備された、小田原城「三の丸外郭新堀土塁」で、北条家時代にあった総構えの遺構となります。

三の丸外郭新堀土塁

周囲約9キロの長大な「総構え」(そうがまえ)の最も外側に位置するとされています。
江戸時代に入ると、この重要な場所は「御留山」、すなわち御禁止山となり、幕末まで、一般人は立入禁止だったそうですので、小田原城の中を覗かれることを嫌った模様です。

小田原城「三の丸外郭新堀土塁」

その後、商船三井(山下財閥)の創業者としてしられる山下亀三郎の別邸「対潮閣」が建てられました。
海軍中将・秋山真之(坂の上の雲)が、病気療養して、亡くなった場所にもなります。
しかし、この、三の丸外郭新堀土塁付近には、駐車場がないのが難点です。

現在の小田原城域に北条家の屋敷があった?

小田原城天守閣の北側に「御用米曲輪」があり、大規模な発掘調査が行われています。
 
小田原城跡の御用米曲輪

新しい発見としては、礎石建物跡と庭状遺構が見つかりました。
これは非常に興味をそそります。
江戸時代には米を備蓄する広場として使われていたところの地面の下から、屋敷の跡と庭園の跡が発見されたのです。
すなわち、江戸時代より古い遺構です。
また、小田原市によると、このような屋敷と庭園は、大友氏遺跡の大友氏館跡・大内氏遺跡の大内館跡・阿波細川氏の勝瑞城館跡・越前朝倉氏の一乗谷朝倉氏関連遺跡など、大名レベルの居館遺構にも相当すると言います。
となると、北条家の北条氏康・北条氏政北条氏直など当主が普段生活したり、来客を接待したりした屋敷は、山手ではなくこの御用米曲輪の低地部にあったと考えられるのです。
1558年に、小田原に入った古河公方足利義氏が宿泊した北条氏康の館には、会所・寝殿もあると言う規模が大きい館だったと言いますので、それがこの御用米曲輪だった可能性も出てきました。





なお、遺構はその後、土の中に埋め戻すとの事ですので、見れるのは今だけですね。
とにかく、北条家の2代・北条氏綱以降、豊臣秀吉の攻撃を受けるまで、小田原城は約100年間、常に改修工事を行っており、どんどん拡大して行きました。

小田原城総構え

上記が小田原城の総構えです。その広さは、大阪城の総構えといい勝負なのですね。
と言うより、豊臣秀吉は、石垣山城からこの小田原城の総構え見て、自分の大阪城にも導入しましたので、1590年の小田原攻め当時では、日本で最大の城域を誇っていたと言って良いでしょう。
 

江戸時代からの小田原城

徳川家康が江戸城に入ると、小田原城主になったのは大久保忠世です。
45000石で小田原藩となった訳ですが、その時から、丘の上にあった小田原城を、現在の場所に新しく築城開始したものと考えられます。
徳川家康が関東の城で「天守閣」を許したのは、江戸城以外では、小田原城だけでした。
しかし、広大な総構の城域はかなり縮小されました。
また、大久保忠世の子・大久保忠隣が、1614年の大久保長安事件に連座して改易となると、小田原城の二の丸・三の丸の石垣・城門が破却されたと言います。
でも、1657年に江戸城の天守が焼失した後は、江戸城には天守が再建されていませんので、明治に廃城を迎えるまで、小田原城の天守は関東唯一の天守となったのです。

小田原城

ただ、上記の現在の天守閣は復興天守でして、完全なコンクリートの建物なのですね。
その為、より本物に近い木造の天守に立て直そうと言う動きもあるようです。

小田原城

小田原城は、小田原駅から歩いて約10分の距離と、大変観光しやすい立地です。
天守閣は有料拝観が可能で、展望台からは箱根の山々や、相模湾の展望が望めます。
また、館内は北条家に関する展示などもあり、お土産も販売されていますよ。
※各写真はクリックすると拡大致します。

小田原城天守閣

何度も来ているので、今回は天守閣には入らず、写真を取りながら歩きました。
江戸城の天守閣が焼けてからは、関東で天守のある城は、小田原城だけでした。

小田原城・常盤木門

上記写真は、常盤木門(復元)です。虎口になっているのが良く分かりますね。

小田原城・小峰

上記写真のように「小峰」と呼ばれるちょっとした丘の上が本丸になっています。

小田原城の土壁

上記は土壁の構造が見れる写真ですね。

小田原城・銅門

上記は「銅門」です。近年になり、復元されました。
下記も銅門です。

小田原城・銅門

小田原城・銅門

下記の写真中央に天守閣が小さく見えるのわかりますか?

小田原城

観光所要時間ですが、全部見て周りますと90分~120分くらいは見た方が良いかと思います。
有料の天守閣や歴史見聞館を省くと、一周して約50分といったところでしょうか?

最後におまけ写真は、幸田門の土塁です。
上杉謙信武田信玄は、この辺りから小田原城を攻めました。

幸田門の土塁

小田原城を訪問する場合には、事前に公式サイトで「割引券」をプリンター印刷して持参すると良いです。
時間があれば、3館共通券をご購入頂きまして、ゆっくりと見学されると良いでしょう。

交通アクセス

電車の場合には、JR小田原駅(小田急電鉄の小田原駅)南口から、歩いて約20分となります。
小田原城の駐車場は下記の付近に2箇所あります。

1時間300円、以後は30分100円です。
ただし、観光名所でもあることから、土日祝は混雑しますので、この小田原市の駐車場情報(地図あり)もご参照願います。

毎年5月3日には、日本最大規模の武者行列もある「小田原北條五代祭り」が開催されます。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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