常陸・多気山城(たきやまじょう)は、小田城の小田氏に仕えた重臣・多気氏(たけし)が入っていたと考えられる山城で、関東七名城のひとつに分類されることもあります。
単に多気城(たきじょう)、城山城(じょうやまじょう)とも呼ばれますが、多気山(たけやま)の標高約129.4m(比高100m)の独立峰に築かれた山城で、4つの曲輪や、堀と土塁が認められると言います。
平安時代中期に、桓武天皇の流れをくむ常陸平氏の宗家・大掾氏の出自である平維幹が、990年頃に、常陸国筑波郡水守から多気の地に移ったと言う説があります。
そして、鎌倉時代の「吾妻鏡」に登場する「多気の山城」は、この平維幹が築いた多気山城とされます。
平維幹は常陸大掾職に任じられ、子孫は常陸・大掾氏(多気氏)として、世襲していきます。
ただし、現在認められる遺構は規模が大きく、とても鎌倉時代前に築かれたとは考えにくいです。
その為、戦国時代になって、小田氏が佐竹氏に敗れ滅亡した際に、佐竹氏側がこの筑波の守備の為に多気山城を改修したと見るのが妥当です。
よって、多気義幹(大掾義幹)の屋敷は、麓の北条の街中や、山すそにあったものと考えられます。
ただし、小田氏は佐竹勢と散々争いましたので、小田城に変わる強固な城として使うため、改造途中だったとも考えられます。
いずれにせよ、茨城県にはこのような単独の山城は珍しく、茨城県有数の規模を誇るのは間違えありません。
下記は南側(北条側)から見た多気山城(多気城)です。
多気山城がある北条の地には、地元で多気太郎様と呼ばれる、大掾義幹の墓があります。
また、その墓の近くには、日向廃寺跡(ひゅうがはいじあと)と言い、発掘調査により、宇治の平等院鳳凰堂と同じ建築であったと考えられる豪華な寺院もありました。
中央堂を中心に東西に回廊をもつ「阿弥陀堂式寺院」と推定される礎石群が見つかっているとのことです。
多気氏の繁栄は、平繁盛から多気維幹、多気維幹、多気為幹、多気繁幹、多気致幹、多気直幹へと続きます。
また、真壁城の真壁氏、下妻城の下妻氏、鹿島神宮の鹿島氏、幕末に芹沢鴨を輩出した芹澤氏、塚原卜伝で有名な塚原氏、小栗判官物語で知られる常陸・小栗城の小栗氏、伊豆にて挙兵した源頼朝が最初に襲撃した山木兼隆の山木氏など、数多くを輩出しています。
宗家においては、奥州合戦などで功績を挙げている鎌倉時代初期の武将・多気義幹(たけ-よしもと)がいますが、1193年5月、曾我兄弟の仇討ちのあと、身柄が園部泰綱に預けられ、所領と所職が没収されて滅亡しました。
多気山城(多気城)の南側、北条の街の中心に「裏堀」と呼ばれた水堀があり、北条用水として現在でも活用されています。
ただ、小田城の八田知家が、この用水を「戦の準備のために掘った」と源頼朝に訴えたとされ、多気義幹は謀反の罪に問われ、領地没収の上、刑に処せられたともされます。
多気義幹の没日は7月6日と7月15日の2説があります。
この、多気義幹が晩年に造営したのが日向廃寺で、北条(多気)での繁栄が伺えます。
下記は、東側にある平沢官衙遺跡付近から撮影した多気山城(多気城)です。
水守城は、桜川の対岸、つくば市の田水山小学校付近にあったようで、多気山城がある北条からは車で10分ほどの距離、田中荘の近くとなります。
水守の街中は今でも古い家屋が並びます。
なお、多気山城と言う名の城は、多気氏が築いたとされる、つくば市北条にあるこの山城と、宇都宮氏が築いたとされる宇都宮市の山城(下野・多気山城)と2つ認められます。
地元ではいずれも城山と呼ばれており、調べる際には注意が必要です。
宇都宮の城は一般的に多気城と呼ばれ、筑波の城は多気山城と呼ばれることが多いです。
多気義幹は、富士のおける曽我兄弟の仇討ち事件の際に、多気山城に兵を集めるなど不穏な動きをしたとして、源頼朝より大掾職を没収され、その後、八田知家が本拠を移し、小田城を築城して筑波を支配しました。
つくば市北条には、他にも筑波郡衙跡とされる平沢官衙遺跡が整備されており、古墳時代からの遺跡も集中しています。
なお、多気山城は、宗教法人(茨城県龍ヶ崎市の正覚山正信寺さん)が山全体を所有しており、一般人は立入禁止と厳重に管理されています。
間違っても無断で侵入しないよう、ご注意願います。
この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものとなります。
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