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江戸崎城の歴史解説~土岐治頼が土岐氏の宗家になった常陸・土岐氏の本拠地

江戸崎城

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江戸崎城とは

江戸崎城(えどざき-じょう)は、茨城県稲敷市江戸崎甲にある標高20m、比高15mほどの平山城

霞ケ浦へ繋がる小野川の「入江」に面していて「江」の「戸」に臨む「崎」にあることから江戸崎と言う。

この付近は、茨城県土浦市南部、つくば市南東部、阿見町、美浦村、牛久市東部、稲敷市東部などを含む広大で豊かな信太荘(しだのしょう)に含まれるため、江戸崎にも古くから領主の館(代官など)があった可能性がある。
ただし、一般的に最初の築城としては南北朝時代の1387年頃とされる。
1387年頃、土岐原氏(江戸崎・土岐氏)が江戸崎城を築城したとされる。


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鎌倉時代後期の美濃源氏嫡流・土岐光定の子である蜂屋定親(土岐定親)がいる。
その蜂屋定親の次男・原師親の系統から江戸崎氏(常陸土岐氏)、万喜氏(上総土岐氏)へと繋がる原氏(土岐原氏)を輩出した。

鎌倉時代に信太荘は小田氏の領地であったが、1333年に鎌倉幕府が滅亡し、下野守護であった小山義政が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした小山義政の乱(1382年)にて小田氏が小山氏に味方したことで信太荘は没収された。
代わって信太荘を領したのは山内上杉氏で、1387年、上杉憲方が関東管領になると、原師親の次男・原師秀の子である原秀成(原左馬助秀成)が上杉氏の要請で、常陸・信太庄惣政所(しだのしょうそうまんどころ)として赴任したと言う。
文献などでは単に原氏と記載されているが、隣接する千葉氏の一族にも原氏がおりややっこしいこともあり、この原秀成のことを江戸崎では「土岐原秀成」と呼ぶ。
なお、上杉憲方は信太庄布佐郷を臼田直連に与えている。(臼田館・丸山館)

なお、土岐原秀成は伊南荘を子の土岐原時政(土岐時政)に任せて万喜城に入れ、上総土岐氏として分家している。

1409年、信太荘惣政所として土岐原秀成(土岐原浄瑞)の名がみられる。

1423年、小栗満重の乱の際に、土岐原秀成の子・土岐原憲秀は、足利持氏に従い、鳥名木館の鳥名木国義などと共に小栗城を攻撃。

1428年、佐竹一族の内紛・山入祐義の乱では、土岐原憲秀の嫡子・土岐原景秀が、鳥名木国義らを指揮して常陸・野口城に出陣。

1438年からの永享の乱で、関東管領・上杉清方に従い結城城の戦いで戦功をあげた。

1440年、鎌倉府(関東管領)からの命にて、土岐原景秀(ときはらかげひで)は霞ケ浦などに出没する海賊退治を行い、江戸崎城を改修したようだ。


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1497年5月、土岐原景成(土岐原修理亮景成)が没すると子がいなかったため家中は混乱。
のち常陸・小田城の小田氏に江戸崎城を奪われている。
そのため、美濃守護である土岐惣領家より養子を迎えた。

土岐治頼

土岐治頼(とき-はるより)は戦国時代の武将で、美濃守護・土岐政房の3男として1502年に生まれた。
兄に土岐頼武・土岐頼芸がいる。
土岐原氏(江戸崎土岐氏)の要請にて、土岐原景成(原景成)の娘と結婚して、婿養子となり土岐原氏の家督を継いだ。

<注釈> 1497年に土岐原景成が死去。土岐治頼の生年は1502年で、15歳で元服したとして土岐原氏の家督継承したのは1517年頃?
この約20年間の空白期間を埋める史料は見つかっていない。

ただし、 1506年前後?、土岐原氏家臣である羽賀城の臼田弥次郎、常陸・木原城の近藤八郎三郎(近藤勝秀)の被官・原内匠助ら数名が小田氏と内通して江戸崎乗っ取りを謀るも発覚したともある。
一説では、1510年から小田氏が一時、江戸崎城を占領していたともされる。

小田氏最盛期の領地

いずれにせよ、1514年に小田成治が没し、小田政治の代になると、土岐治頼(原治頼・江戸崎治頼)は、近藤勝秀、臼田河内守らと関東管領・上杉憲房らの支援を得て、1523年に小田氏の常陸・八代城(屋代城)を攻略。
龍ヶ崎城から江戸崎城を奪還し旧領を回復した。

1542年、斎藤道三によって兄の美濃守護・土岐頼芸が美濃を追われると、土岐頼芸は弟を頼った。
そのため、上総土岐氏の万喜城へ経て江戸崎城にも土岐頼芸は滞在し系図及び家宝を譲渡したが、その後、甲斐の武田信玄を頼っている。
なお、土岐氏嫡流の家系図を譲渡されていることから、江戸崎土岐氏が事実上の宗家扱いになったと推測される。
以後、土岐治頼は名門・土岐宗家の当主として家名を、原から「土岐」に戻した。

武田信玄に仕えた原昌俊・原昌胤の親子は、土岐原氏の一族ともされる。

1557年、土岐治頼は死去。


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嫡男の土岐治英(土岐治秀)が家督を継いだが、弟?・岡見頼勝は岡見氏の養子となって牛久城を支配したようだ。

1561年、上杉謙信小田原城を包囲した際に、佐竹氏・小田氏らが率いる諸将の中に土岐大膳大夫の名がある。

1563年、小田氏治が小田原の北条氏に臣従したが、同じころ常陸・土岐氏も北条氏に従った模様。
北条家の重臣・松田憲秀が土岐氏への使者に充てられている。

土岐治英(土岐治秀)の子である土岐胤倫(たねとも)は1567年に龍ケ崎城に入っている。
1568年、龍ヶ崎城が改修されたようだ。

1574年?、佐竹義重が小田氏の土浦城を攻め落とすと、小田氏治は土岐氏を頼って江戸崎城へ逃れたともされる。
すぐに、菅谷政貞の子・菅谷範政が土浦城を奪還すると、小田氏治は木田余城へ移った。

1580年、土岐治英と岡見彦五郎が協力して、佐竹義重の家臣・多賀谷政経の谷田部城を攻撃。

1584年、土岐治英は常陸・麻生城の麻生之幹の援軍として、土岐治綱が常陸・島崎城島崎安定と霞ヶ浦で海戦したとある。
麻生之幹は土岐治英を頼って落ち伸びたとも自刃したとも。
その1584年に土岐治英が没した。

更には、江戸崎城の土岐美作守治綱と、竜ヶ崎城の土岐胤倫との兄弟でも対立した。
<注釈> 土岐治綱の子・土岐頼英の正室は土岐胤倫の娘・虎姫ともある。

毛利家文書によると江戸崎城には土岐美作、竜が嶺城(龍ヶ崎城)に土岐兵衛助、常陸・木原城に進藤(近藤?)とある。
<注釈> 常陸・木原城主は近藤薩摩守。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めが始まると、江戸崎城、龍ヶ崎城、常陸・木原城などに1500騎で防衛。
しかし、5月20日、浅野長吉の軍勢を前に土岐治綱は無血開城したようで高田須城にて蟄居。
その後、上之島(現東町)にて帰農し、1651年に没した。


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小田原城の北条氏が滅亡すると、佐竹義重が常陸国54万石の支配権を認められ、江戸崎城には佐竹義重の子・芦名盛重が4万5000石で入城した。

しかし、1600年、関ヶ原の戦いに佐竹氏は不参加だったため、出羽・久保田城20万石に転封となり、芦名盛重(蘆名義広)も秋田の角館城に移住。

1603年、徳川家康の家臣で江戸奉行・関東総奉行の青山忠成が常陸・江戸崎1万5000石となって江戸崎藩が成立した。

その後、常陸・古渡城から丹羽長重が2万石で入ったが、1622年に陸奥・棚倉藩に加増移封となり江戸崎藩は廃藩、徳川家の直轄地となった。

土岐胤倫の子・土岐頼房は徳川家康に拝謁し、駿河国にて知行を与えられ、名字を土岐から豊島氏に改めた。

交通アクセス

江戸崎城は現在の江戸崎小学校一帯で、坂を上ったところが平坦地で原っぱにクルマを止められる。

江戸崎城

場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

このあとは、常陸・木原城に向った。

(参考) 江戸崎土岐氏年表

常陸・古渡城のちょこっと解説~甲賀忍者・山岡景友が大名になった霞ケ浦湖畔の城跡
万喜城(万木城)のちょこっと解説~10万石相当・土岐為頼(万喜為頼)
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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