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洲本城の歴史をどこよりも詳しく~淡路島の中心地となった城下

洲本城

洲本城(すもとじょう)は、淡路島とにる兵庫県洲本市にある、標高132mの平山城(比高132m)で、国指定史跡となっています。
別名は三熊城で、続日本100名城にも選ばれました。

最初の築城は不明瞭なところがありますが、戦国時代の1526年(大永6年)に安宅治興が築城しました。

淡路国の安宅家(あたぎ-け)は水軍で、阿波守護の細川家に従属していましたが、三好長慶が主家の細川家を討って阿波から畿内へと進出すると、安宅治興は三好家に臣従しました。
そして、三好元長の3男(三好長慶の弟)である安宅冬康(あたぎ-ふゆやす)を養子に迎えています。

と申しましても、安宅家の居城は由良城(由良古城)で、洲本城は淡路島に8箇所あった支城のひとつにすぎませんでした。





安宅冬康は淡路水軍を率いて、阿波国衆の三好実休、讃岐国衆・十河一存ら兄弟で、兄・三好長慶をよく助けました。
しかし、十河一存が亡くなり、勝端城の三好実休も討死すると、永禄7年(1564年)5月9日に、兄・三好長慶の居城である飯盛山城に呼び出されて、自害させられました。享年37。
この殺害理由は諸説ありますが、後継者争いや謀反の疑いだともされています。
洲本城の様子と共に、話を続けさせて頂きます。

洲本城

ただし、家督は嫡男・安宅信康が継ぐことを許されており、引き続き淡路の水軍を指揮しましたが、1578年に安宅信康が死去したあとを継いだ、安宅清康の頃でも本拠地は由良古城です。

洲本城

三好家が衰退すると、兄の代から織田信長に従属していましたが、安宅清康は安芸・郡山城の毛利輝元に内応して、織田家に敵対する動きを見せます。
そのため、天正9年(1581年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉、池田元助らによって攻撃を受けた由良古城は降伏しました。

洲本城

これに伴って、岩屋城攻め、由良古城攻めで戦功があった仙石秀久に与えられ、洲本城に入ったと考えられています。

洲本城

安宅清康は紀伊に追放されたようですが、すぐに病死したため淡路・安宅氏は滅亡しました。
なお、安宅冬康の嫡男は、安宅神太郎で、その没後は三好実休の3男である安宅神五郎が家督を継承したともされており、諸説あります。

洲本城

1582年、本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴秀吉より命じられた仙谷秀久は、淡路島の豪族らを従えます。
そして、賤ケ岳の戦い前には、柴田勝家に味方した長宗我部元親の抑えとなって、菅達長を破ると小豆島を占拠しました。
また、十河存保を救援するため、引田城に入っています。
これらの功績で仙石秀久は5万石にて淡路の国主となり、洲本城を拠点とし淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助らを束ねました。
その後、阿波・木津城攻めなどでも活躍すると、仙石秀久は讃岐22万石となって、聖通寺城(または高松城)に入ったとされています。

洲本城

1585年10月には、脇坂安治(わきざか-やすはる)が、3万石で洲本城主として赴任し、加藤嘉明九鬼嘉隆らと共に豊臣水軍衆の指揮を務めました。
特に、1590年の小田原攻めでは、下田城を海上から攻撃して陥落させ、また小田原城沖でも牽制するなど、水軍が活躍しています。

洲本城

また、脇坂安治は、洲本城の改修を開始し、連結式の天守が造営されたと考えられています。
本丸の北側に天守台があり、大天守台と小天守台の2つの天守台がつなぎ櫓台で結ばれている連結式天守の構造となっています。

特に石垣には「登り石垣」が認められるとの事ですが、これは、朝鮮攻めの際に倭城での経験から採用されたました。

登り石垣とは

登り石垣(のぼりいしがき)は、伊予・松山城彦根城にもみられる石垣で、麓から山頂に向けて「縦」に高い石垣が設けられています。
これは、敵が城を攻めてきた際に、山麓を横移動できないようにする目的の石垣となります。
洲本城のように海上から補給可能な城の場合、登り石垣と、登り石垣の間には、敵を入れず、海上との通路が奪われないようにし、補給や逃亡経路の確保をすると言うことです。
洲本城では本丸天守台から東の丸までの間に登り石垣があります。

さて、脇坂安治は1600年、関ケ原の戦いでは、石田三成に協力していたが、戦闘が始まると、小早川秀秋らと徳川家康に寝返り、所領を安堵されました。
慶長14年(1609年)9月、脇坂安治は伊予・大洲藩5万3500石に加増移封となり、大洲城を改修します。
この時、洲本城の天守を大洲城に移築したとする説もありますが、現実的ではないように感じます。

洲本城

変わって、1610年、池田輝政督姫(徳川家康の侍女)の子である、池田忠雄(いけだ-ただかつ)が、僅か9歳で淡路・洲本城にて6万石となりました。
ただし、藩主は姫路城に留まり、淡路には家臣・中村主殿助が置かれています。
1613年になって、池田忠雄が淡路に入ると洲本城は廃城とし、岩屋城、そして由良成山城(由良城)を築城して本拠としました。

その後、1615年、池田忠雄は兄・池田忠継の病死を受けて、岡山城に入ったため、淡路は徳島藩の蜂須賀至鎮にあたえられ、筆頭家老の稲田示植(いなだ-しげたね)が派遣されました。
これは、大坂の陣で戦功があった稲田示植が、徳川家康の命にて赴任したと言う事になります。

洲本城

この時、しばらく由良成山城(由良城)を使用したようですが手狭だったようです。
江戸幕府の許しが出ると、稲田示植は1631年から1635年には洲本城を本拠として再び使用しており、由良城は廃城となりました。
この移転は城下町ごとの大移転となり「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれています。

なお、山城は不要とされ、1642年(寛永19年)には三熊山の麓に政庁機能を移転させました。

洲本城

現在の淡路文化資料館がある場所となり「下の城」と呼ばれます。

洲本城

以降は、山上の洲本城(上の城)が使われる事はありませんでしたが、明治維新まで稲田家が洲本城代を務めました。

洲本城

現在ある洲本城の模擬天守は、1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として、総工費1万円で建造された鉄筋コンクリート製で、四層四階の層塔型の模擬天守となっています。
ただし、模擬天守としては日本で最古です。

洲本城

天守にある展望台から見下ろす洲本市の街並みは絶景です。
三熊山公園として整備されていますので、家族でピクニックをするのにも良いところです。

洲本城からの風景

交通アクセスですが、バスの場合、大阪・神戸三宮から淡路交通高速バスにて、洲本バスターミナルにて下車し、大浜公園近くの三熊山登山口から延々と坂道を山頂まで徒歩60分となります。
洲本温泉街からは、徒歩で約40分くらいです。





クルマの場合には、洲本城の山頂部にある大手門跡脇(馬屋曲輪跡)が、約20台の無料駐車場となっています。
ただし、登り石垣を見る場合には、大浜公園前の淡路島ホテル脇から徒歩で登るのが一番となります。

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この史跡への皆様の評価→
攻略難易度
初心者向け
旧国名
淡路
著者コメント
本丸の近くまでクルマで上がれますので、訪問しやすく、公園整備もされています。

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