茨城県

水守城(水守営所)の解説~かなり歴史が深い筑波の古城「平良正」「平為賢」

水守城(水守営所)




水守城(水守営所)とは

水守城(みもり-じょう)は、茨城県つくば市水守にある平山城で、別名は、平良正の館、水守営所と言います。
比高20mほどの台地が、北に突き出た、先端部に築城されていると言う感じです。
現在、水田になっている低い土地は、桜川の低湿地帯であったと考えられます。

水守営所

地名の水守の由来は、台地の下に清水が湧いていて、そこに日本武尊(ヤマトタケル)が、泉の番人として「水守り」を置いたことに由来すると言います。
最初の築城は平安時代で、平良正(たいら の よしまさ)が築いたとされます。





ただし、小生の調べですと、古墳時代に、常陸国久慈郡に入った久自国造の一族が真髪部(真壁)に入り開発すると、その同族である大部造(おおとものみやつこ)が、筑波国造として筑波郡に入ったとあります。
初代筑波国造は、阿閉色命(あべしこのみこと)ともされますが、まだ前に先祖がいたと考えられます。
また、時代は不明ですが、金乃造(金子)、磐麿乃造(いわまろ の つくり)などが、筑波を引き続き領有した可能性が考えられます。
ただし、筑波郡で本拠にした場所は、桜川での水運にも便利な水守郷だったようですので、水守城(水守の営所)に屋敷を構えた可能性もあるかと存じます。

水守城から筑波山を望む

離れていますが、筑波山の麓にある沼田八幡塚古墳(下記)は、大きいことから、筑波国造の誰なのか?も、注目と言えるところです。

沼田八幡塚古墳

実際問題、水守城の内部には、古墳を使用したと思われる、土塁の高まりが3箇所ほどありますが、もともと水守古墳群は6基あったようです。
ただ、古墳のすぐ横に、古代から屋敷を構えたとは考えにくいことから、古代の水守郷の集落は、少し離れていて、やはり平安時代になってある程度防御性が必要になると、古墳を使用した館・城が生成されたものと推測致します。

水守城

645年の大化の改新を、672年の壬申の乱などを経て、701年、大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されると、日本全国には、貴族から国司を6年(のち4年)の任期で配するようになります。
当初、国司(常陸の場合常陸守)が任地に下向することはほとんどなく、実質的な実務は常陸介が、その下には常陸大掾が、常陸国に入って担当するようになり、領地の所有者も変わって行きました。
また、筑波(つくば)では北条(多気)に、平沢官衙と言う筑波郡の郡衙(役所)も置かれて、税を徴収しました。
下記は、平安時代にも機能としていたと推測される、北条の平沢官衙跡です。

平沢官衙

このように朝廷が安定した税収を得られるよう、中央の支配が強まり、古来より、長年、筑波郡を相続した大部造の権力も弱まったと考えてよいでしょう。
833年、筑波郡人の丈部(はせつかべ)氏である、丈部長道、丈部氏道、丈部継道、丈部福道の4名が、有道宿祢(ありみちのすくね)姓となって武蔵国北部に移ると、子孫は児玉党を構成するようになりました。

丈部は誤りで、正しくは大部であると言う説もあります。
ただし、丈部(はせつかべ)と言うのは姓名で、「杖」を携帯し公用の雑役(使い走り)を担当した者を言い、先祖は蝦夷・俘囚(ふしゅう)だった可能性もあるため、なんとも言えないところです。
実際に、平将門の家来にも、丈部子春丸と言う人物が、使者をやっていて、937年に平良兼が、駈使・丈部子春丸を買収して、石井の営所のスパイをさせたともあります。
このように、当時の家来の中には、労働力として期待された俘囚が、かなりいた証拠とも言えます。

埼玉県熊谷市にある熊谷駅前の町名が「筑波」である由来も、先祖は筑波から来たからと容易に想像がつきます。





そして、筑波だけでなく、関東で、力をつけるようになっていったのは、平高望(高望王)の子供たちと言う事で、水守営所の平良正(水守六郎)に繋がります。

経緯をわかりやすく解説しますと、898年、上総介になった高望王(たかもちおう)が、長男・平国香(たいら の くにか)、次男・平良兼(たいら の よしかね)、3男・平良将(たいら の よしまさ)らと、任官した上総国に下向します。
余談ですが、平高望の5男・平良文はのちの939年に、相模・村岡城に入り、村岡五郎と称しており、その子孫からは、千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏。三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏も出ています。

水守営所

このように、高望王(平高望)の名は、坂東武士のことを色々と調べたりしていると、よく目にする平安時代前期の武将の名前です。
この高望王(平高望)は、上総介の任期が終わっても京に帰らず、、関東を基盤とし、常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発したため、単なる貴族から武家貴族(武士団)へと変貌を遂げる大きな転換点となりました。
こうして、関東で高望王流桓武平氏が成立し、土肥氏・秩父氏・北条氏などの坂東平氏とと発展したほか、伊勢平氏の平清盛戦国時代の伊勢盛時(北条早雲)も子孫と言う事になります。

平良正

将門記によると、平国香の弟・平良正が本拠地とたのが水守営所とありますので、これに習うと、水守営所の平良正の父は、高望王(平高望)と考えられます。
他の説では、平良正の父は、高望王の3男・平良将ともされます。





高望王(平高望)の長男・平国香は、前任の常陸大掾・源護の娘を妻にし、常陸国真壁郡東石田の常陸・石田館を本拠としました。
そして、常陸大掾を継いだことで、常陸での地位を確立します。
3男・平良将は、下総国佐倉にて未墾地を開発し、子の平将門(903年?~940年)を輩出します。
水守営所の平良正の妻も、源護の娘とされます。

真壁の源護(みなもと の まもる)の子、源扶(みなもと の たすく)は、新治の平真樹(たいらの まき) と真壁・新治・筑波の境界線を巡り、領地争いをしていました。
新治の平真樹の娘・君の御前は、平将門の妻になっており、勢力をつけていた平将門は、新治の平真樹に味方したようです。
そのため、935年2月4日、源護の子である源扶・源隆・源繁の兄弟は、真壁・野本(茨城県筑西市赤浜付近)にて、平将門を待ち伏せしました。
しかし、平将門は、これらを撃退し、源扶ら兄弟は奮戦するも討死したと言います。
勢いに乗じて、平将門は大串・取手(下妻)から、源護の本拠・真壁を焼き討ちし、その際に、常陸・石田館の伯父・平国香も焼死しました。
こうして、平将門の乱(承平天慶の乱)が、真壁から始まったと言う事になります。





平国香(平良望)の嫡男・平貞盛(たいら の さだもり)は、朝廷に休暇を申請して、京から急ぎ駆けつけ、焼失し父・平国香の屍を探し出し、また、山中に逃れていた、母と妻らを見つけたとあります。

水守営所の平良正は、平将門を討つ為、兵を集める準備を開始します。
これを、源護は喜んだとありますので、妻の父・源護は、生きていたようです。

935年10月22日、平良正が兵をあげると、鬼怒川沿いの常陸国新治郡川曲村(桐ヶ瀬城付近?)にて、平将門と激戦となりました。
平良正は敗走して水守城に戻ったようで、平将門は、23日、本拠である下総国豊田(茨城県常総市豊田)に引き上げています。

その後、平良正は、不介入を貫いていた、上総の平良兼(平高望の次男)に、平将門の乱暴を訴えました。
平良兼は継室が源護の娘であり、更には、娘を平将門の妻に出しています。
そのため、平良兼も、平将門の暴挙を見過ごすことが出来なくなり、936年6月、上総国から出陣しました。
そして、平良兼と平貞盛は、平良正の水守営所にて会談しています。
その後、平良兼らは、下野国へ向かったようで、追撃した平将門と、常野の国境にて合戦になりました。





敗れた平良兼らは、下野・国衙(下野国庁?)まで撤退し、保護を求めたとあります。
この頼った相手が、のちの平安時代末期、関東武士のキーパーソンとなる、藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)と考えられます。
<注釈> 平貞盛の母は、藤原村雄の娘(平国香の妻)で、その藤原村雄の嫡男が藤原秀郷。
ただし、平将門も、すかさず、下野国国府(栃木県栃木市)を包囲しています。
しかし、平将門は、包囲の一角を解いて、平良兼を逃し、下野国の国府に、自分の正統性を認めさせると、戦わずに退却しています。
同年、源護が朝廷に告訴したので、一旦、平将門の問題は、京にて審議されることになりました。

なお、水守営所の平良正に関しては、その後の動向が不明であり、病死か討死したものと考えられます。
いずれにせよ、940年、平将門の乱を鎮圧したのは、藤原秀郷の力であり、関東各地に領地を持ち、子孫は関東各地にて繁栄し、のち鎌倉幕府を開く源頼朝の中核となります。
藤原秀郷と連合を組んだ平貞盛も、平将門討伐の武功がもちろんあり、たくさんの所領を得ました。
同じく参陣していた、平貞盛の弟・平繁盛(たいら の しげもり)は常陸大掾に任じられます。
その弟・平繁盛の子・平維幹(母は真髪部武元の娘)は、平貞盛の養子となって、水守城に入って平水守太夫維幹と称しました。
その平維幹(たいらのこれもと)は、桜川の対岸にある北条を本拠にして写り、常陸大掾職を継ぎ、多気権大夫と号しました。
常陸・多気山城が、館ともされますが、当時は、平地に屋敷を構えたと考えられますので、麓に住んでいたものと考えられます。
こうして、平貞盛の養子・平維幹は、常陸大掾氏の祖となりました。

999年12月、平繁盛(平国香の次男)の子の平維幹(常陸大掾・平貞盛の養子)が、右大臣・藤原實資に臣従して、絹・馬などを献上すると、五位となっています。

常陸大掾・平維幹(多気維幹)の嫡男・平為幹(多気為幹)は、多気の総領を継いでおり、次男・平為賢が水守氏(水守為賢)になったとあります。
すでに、水守城の平良正は亡くなっていたものと考えられます。





またまた余談ですが、平繁盛の系統には、伊豆国山木郷に入った山木兼隆がおり、1180年に源頼朝が挙兵した際に、討たれています。

平為賢(伊佐為賢)

和名抄の筑波郡水守郷の部分にて

嫡子為幹は多気の総領を継ぎ、二子為賢水守氏たり

と記載されています。

大掾系図では、平為賢は、三守(水守)・伊佐・下妻・真壁元祖と記されている事からも、領地は広大であり、常陸国伊佐郡(茨城県筑西市)も含めて、広く領していた可能性が考えられます。

このように、次男・平為賢(伊佐為賢)が、水守城に入って、水守氏となりました。
よって、多気(北条)(下記写真)に移った時点で、廃城になったとは考えにくいところです。

多気(北条)

なお、平為賢の子・平為宗、伊佐庄の地頭となって、伊佐二郎と称したとあります。
この伊佐為宗が、常陸平氏の伊佐氏の租と言えるでしょう。

1019年頃、刀伊の入寇に際し藤原北家・藤原隆家が率いた武士に、東国から派遣された武士団がいます。
その中に、平致行(平宗行?、平致光?)、伊佐庄の伊佐為忠(平為宗)などがいますが、平為賢(伊佐為賢、平為方、大掾為賢)の名も見受けられます。

平為賢(伊佐為賢)は、刀伊の入寇を撃退した恩賞として肥前国高来郡(諫早市)を下賜され、伊佐の字をとって伊佐早(諫早)と言う地名にしたとあります。
その後、伊佐早に入った多気一族、肥前伊佐氏(鎮西平氏)となり、肥前・船越氏などがいます。
そのため、九州のほうでは、平為忠と言うより、伊佐為忠と言う名前が多く使われています。





この平為賢に関しては、1020年7月に、下記のような史料もあるようです。

故常陸守惟通朝臣妻、強姦彼国住人散位従五位下平朝臣為幹、縁惟通母愁被召

ちなみに、紫式部の異母弟が、常陸介・藤原惟通ですので「源氏物語」の内容に影響したのではとも感じてしまいます。

藤原惟通(ふじわら の のぶみち)は、常陸介として常陸に赴任しましたが、40歳くらいで亡くなったとされ、妻子は帰京せずに常陸国にとどまったようです。
そして、藤話惟通の未亡人が、平為幹によって強姦されるという事件が起こり、藤原惟通の母の訴えにより、平為幹(水守為賢)は逮捕されました。
ただし、平為幹は病気を理由にすぐに出頭しなかったともあり、莫大な献物を貴族に贈っていたようで、平為幹は1年間の京都拘留ののち1021年に罪を許されています。
この頃、平為幹は、宗家の多気維幹を上回る勢力であったことは、間違いなさそうです。





平為幹の子として、平重幹がいます。
平重幹が本家筋で、水守城にいたのかどうかは、定かではありません。
よって、その頃、水守城が使われていたのかはも不明です。
平重幹の子・平致幹は、多気姓を継承して多気致幹となり、その子孫は、下妻氏、東条氏、真壁氏へと発展しました。

1052年、源頼義(みなもと の よりよし)が、安倍貞任を討つために陸奥・多賀城へ向かった際の途中、多気権守宗基の娘(平致幹の娘、多気致幹の娘)と、旅の仮屋で結ばれて、女子を生んでいます。
奥州の豪族・清原真衡は、平安忠の次男?・藤原成衡を養子に迎えると、源頼義の娘(多気権守平宗基の孫娘)を妻にしました。
しかし、この婚礼に駆け付けた、出羽の吉彦秀武が、対応に怒って帰り、後三年の役へと繋がりました。

源義家(八幡太郎)の弟・新羅三郎義光(源義光)が、その「後三年の役」で武功を挙げて、常陸介になります。
このとき、常陸平氏・平重幹の子・平清幹の娘(吉田清幹の娘)が、源義光の嫡男・源義業と結婚しています。(多気致幹の娘が結婚したともあるが誤記か?)
そして、1081年?に、源義業と、平清幹の娘との間に生まれたのが、佐竹昌義(さたけ まさよし)で、常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として、佐竹氏の祖になり、戦国大名佐竹義宣 などを輩出しています。
また、平清幹は吉田次郎と言うので分家したようで、子には、吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹と、それそれ吉田氏・行方氏・鹿島氏の祖となりました。





なお、高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-平直方の系統になる、平直方(たいら の なおかた) が鎌倉にいて、1028年6月、叛乱を起こした平忠常の討伐を、朝廷は、平直方に命じています。
しかし、攻めきれず膠着状態となり、平直方の家人であった河内源氏・源頼信に指揮が変わると、1031年、平忠常の首を、見事にはねました。
これにより、桓武平氏国香流の関東での勢力は大幅に弱まり、坂東武士は、河内源氏と主従関係を結ぶようになっていきます。

このように、この常陸大掾氏系の水守氏(伊佐氏)も、衰退したようで、1111年には、藤原定任の長男・藤原実宗が常陸介に任じらると、常陸国伊佐郡に入って、別途、伊佐城を築いて本拠にして、伊佐氏となっています。
ちなみに、この伊佐氏は、武功にて領地を得ると、伊達氏も輩出しており、戦国武将の伊達政宗に繋がっています。
ただし、平安時代後期、常陸入道念西の4人の子の中に、常陸冠者為宗(伊佐為宗)がおり、同じ名前のため、混同しないよう、注意が必要です。

その後の、宗家(多気氏)に関しては、下記にて触れていますので、水守城の話では省略させて頂きます。

常陸・多気山城(多気城) 多気義幹 筑波の北条にある関東七名城

鎌倉時代には、八田知家の7男・田中知氏が、筑波郡田中荘の地頭とあるため、引き続き、八田氏・小田氏の一族が、水守城を使用していたと考えられますが、その後、見られるのは戦国時代になってからです。

戦国期には、小田氏の支城(小田氏治旗下の十二城)のひとつとされ、小田氏治の家臣・水守民部が水守城主(1200石)として見受けられます。
当然、現在残っている土塁、空堀、土橋などの遺構は、戦国時代に改修されたものですが、北側には、古墳を利用した櫓台跡もあります。

水守城

ちなみに、真壁城主・真壁久幹は2500石、常陸・豊田城主である豊田安芸守は5000石、海老ケ島城主・平塚長信は3000石、常陸・北条城主の北条治高は8000石とあります。

田水山小学校があったのですが、2018年3月の統廃合で、廃校になりました。
旧校舎や体育館などが、公共施設として再利用されているようですが、水守城跡としては、見学もしやすくなったのかもしれません。
専用の駐車場はありませんが、勤労者体育センターのところに、10台ほどの駐車場があり、止められました。
駐車場場所は、当方の関東の史跡めぐりオリジナル地図にてポイントしております。
ただし、訪問した際には、運が悪く、下記の写真の通り、門が閉ざされており、水守城(水守営所)の内部へは入れませんでした。

水守城(水守営所)

見張り台のあたりには、石碑もあるはずです。
実際には、すき間などがあるため、入れたのですが、それは不法侵入とも言いますので、内部の見学は、自粛し、道路からの撮影に留めさせて頂きました。
かなり、残念ですが、マナー優先と言うより、今回、歓迎はされなかったという事になるかと存じます。
このあとは、北条にある、多気太郎義幹墓へお参りさせて頂きました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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