滋賀県

小谷城のみどころ「小谷城の戦い」浅井家の滅亡・浅井御殿も【日本100名城】

小谷城

近江・小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市湖北町にある標高495mの小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれた梯郭式山城で、比高は230mと堅固です。
春日山城七尾城月山富田城観音寺城と共に日本五大山城のひとつになっており、日本100名城、国指定史跡でもあります。

小谷城

北国脇往還(北国街道)(国道365号線)を眼下に治め、前面には虎御前山城、山脇山城、丁野山城、西には高時川、背後には伊吹山系が控えると言う、自然の要害に囲まれた日本屈指の山城と言えます。
1523年頃に浅井亮政が築城を開始したようで、麓に深く切り込んだ清水谷(きよみずだに)をに普段の居館や屋敷を配置したので、朝倉家の一乗谷城と似たような雰囲気と言えるでしょう。





その清水谷を守るように、周囲には出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸と言った独立砦が配置されていますので、規模はかなり大きいのが小谷城です。

1568年、織田信長の妹・お市の方が、小谷城主・浅井長政に嫁ぎます。
その後、浅井長政は織田家を裏切ったのも皆様ご承知の通りです。
1570年、激戦となった姉川の戦いのあと、佐和山城主・磯野員昌、宮部城主・宮部継潤、山本山城主・阿閉貞征など次々に浅井家の家臣が織田家に寝返り、織田信長は30000の兵を進めて1573年に「小谷城の戦い」となりました。

織田信長は小谷城の正面にある虎御前山に布陣します。
下記写真が虎御前山です。

虎御前山

そして、不破光治や羽柴秀吉を使者として小谷城へ送り降伏勧告しますが、浅井長政は最終勧告も拒否します。

小谷城を包囲していた織田信長は、1573年8月13日、援軍に来ていた朝倉義景20000の軍勢が前哨戦で敗北し、撤退を開始したところを、まずは急襲しました。
この刀根坂の戦いで朝倉勢は壊滅的な打撃を受け、そのまま織田勢はに一乗谷城まで攻め込み一乗谷城の戦いにて、8月20日、一気に朝倉家を滅ぼしてしまいましたので、これには浅井久政や浅井長政も驚いた事でしょう。

小谷城に引き返した織田信長は、8月26日に虎御前山の本陣へ帰還し、8月27日には小谷城への総攻撃を開始しました。

小谷城

羽柴秀吉(豊臣秀吉)3000が夜半に攻め込み、浅井久政が籠る小丸と、浅井長政が籠城する本丸の間にある「京極丸」を落とし、浅井勢を分断します。

小谷城の城郭図

各写真はクリックすると拡大致します。
羽柴秀吉は、どうやって小谷城の本丸と小丸の間にある「京極丸」を先に落とせたのか?、理解に苦しみます。
尾根づたいだと多くの兵での移動が困難ですので、清水谷から斜面をずっと登って行ったとしか考えられませんが、結構、急峻な斜面ですのでスゴク大変だったと思います。
いずれにせよ、秀吉勢が京極丸から小丸を攻撃すると、ついに浅井久政は自刃しました。

本丸で指揮していた浅井長政はしばらく持ちこたえました。
しかし、嫡男・万福丸を家臣に授けて城外へ逃がし、正室・お市の方と、3人の娘(浅井三姉妹)を羽柴秀吉に引き渡すと、8月29日(8月28日、9月1日とも?)、小谷城の赤尾屋敷にて自刃して果てました。

織田信長は僅か10日間くらいの間に、朝倉家75万石と浅井家40万石の2つを滅ぼしたことになりますので、まさに電光石火の勢いと言えるでしょう。

浅井長政・浅井久政親子の首は京にて晒され、万福丸は捕縛されると関ヶ原で磔にされました。
また、浅井家一門の浅井亮親と浅井井規も処刑されています。

その後、羽柴秀吉が12万石にて浅井家の旧領に入り、長浜城を新築したため、小谷城は廃城となっています。
現在、清水谷には小谷城戦国歴史資料館(下記写真)があります。

小谷城戦国歴史資料館

小谷城の訪問記

と言う事で、小谷城へ登って参りました。
麓から徒歩で登ると、小谷城の本丸は標高346mですので、麓の大手となる戦国ガイドステーション付近からだと約250mもの比高となります。
そのため、徒歩だと約20分~30分掛かる急登となります。

小谷城址の石碑

でも、ご安心ください。
公衆トイレがある戦国ガイドステーションの奥から、小谷城の「番所」手前まで、舗装されている道路「伊部林道」があります。

小谷城へ登城するのには、この大手道にほぼ沿って登っていく道路を車で進んで、途中の中腹にある番所手前の駐車場(駐車スペース)まで行くと便利です。
ただし、麓から臨時バスが運行される日は、麓にある戦国ガイドステーションの無料駐車場しか利用できなくなります。
約10台ほど止められるスペースがありますが、そこまでの道路は狭いですので、常に対向車が来るのを想像して運転する必要があります。
ただし、小生が訪問した1月の平日は、対向車どころか、小谷城では誰にも会いませんでした。

小谷城の出丸跡

上記は、その道路の途中にある「出丸跡」です。
ただし、山城ですので、スニーカーではなく、きちんとした装備をお勧め致します。
私の場合は、トレッキングシューズ、トレッキングポール(ストック)、登山用ズボン、熊除け鈴にて挑みました。
下記は、その番所跡の手前にある「金吾丸」です。

小谷城の金吾丸

下記は「番所跡」でして、確かに屋敷を建てられるほど広い場所となっていました。

小谷城の番所跡

登山道は整備されており、幅も広いです。

小谷城の登山道

下記は御茶屋跡です。

小谷城の御茶屋跡

途中、馬洗池もあります。

小谷城の馬洗池

馬洗池は現在でも水を湛えていました。

小谷城の馬洗池

下記は上段から馬洗池を撮影したものです。

小谷城の馬洗池

馬洗池の先の曲輪は、御馬屋跡となっています。

小谷城の御馬屋跡

馬洗池の脇は、こんもりしていて石垣のような物で、池が2つに区切られている風に見えました。
恐らくは、仕切って堀としても機能させたものと推測できますが、飲料水としても使用していたのでしょう。

小谷城の石垣

下記は小谷城の首据石です。
敵方へ寝返った今井秀信を神照寺で殺害し、その首をここに晒したとされています。

小谷城の首据石

下記は浅井長政が自刃した赤尾屋敷跡です。
実際にはこのちょっと先に屋敷があったようですが、そこで自害したと言う事は、織田勢はここまではまだ攻め込んでいなかったと言う事でしょう。

小谷城の赤尾屋敷跡

黒金門跡の手前には桜馬場と言う平坦地があります。
先ほどの馬洗池の上段です。

小谷城の桜馬場

桜馬場では、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の撮影ロケも行われました。
浅井長政とお市の方が、第1話で話すシーンや、第8話でお市の方と、浅井三姉妹が琵琶湖を眺めるシーンですね。
写真のような展望がありますが、中央に見える山が、織田信長が布陣した虎御前山です。

小谷城から虎御前山を望む

下記は、桜馬場にある「浅井家臣の供養塔」です。

浅井家臣の供養塔

桜馬場の辺りは、一応、下記のような構造になっています。
佐和山城は井伊直政によって本丸など破却(破壊)されて廃城となりましたが、小谷城も廃城になったとは言え、破却はされていないため、佐和山城より見ごたえあります。

小谷城の桜馬場

桜馬場の先には黒金門跡があります。

小谷城・黒金門跡

「門」と言う名称なくらいですので、ここには木造の立派な門があったのでしょう。

小谷城の黒金門跡

下記は黒金門跡を抜けた平坦地は、大廣間跡(大広間跡)です。

小谷城の大廣間跡

大広間跡は千畳敷とも呼ばれており、建物跡と井戸跡も出ているとの事です。
小谷城の熊出没注意は本当なので、鈴などの備えが必須です。口笛を吹いたりするのも有効です。
忘れてました。「熊よけの鈴」なるアプリもありますので、スマートフォンに緊急インストールできれば、実用的です。
もし、熊さんに遭遇して場合は、クマの動向をしっかりと観察しつつ、ゆっくりと後ずさりして離れましょう。
万が一襲われた時には、高いところへ逃れるようにしてください。
小谷城でしたら、高い方へ上がっていくか、木に登るかです。

小谷城の大広間跡

大廣間跡(大広間跡)の先にはいよいよ、小谷城の本丸が見えてきました。
正面には石垣もあります。

小谷城の本丸

本丸の手前には井戸の跡もあります。

小谷城の井戸跡

しかし、1573年時点での山城で、これだけの石垣があるのですから、浅井家もたいしたものです。

小谷城の石垣

石垣の右側に本丸へ登れる箇所があります。

小谷城の本丸

小谷城の本丸には、2層の天守があったものと推定されています。
番所跡から本丸跡までは約400mの登山で、時間的には徒歩10分でした。

小谷城の本丸

本丸へ登り写真を撮影して、奥の大堀切手前まで行ってみました。
その先には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と、まだまだ郭があります。
当初の予定では、本丸まで行って折り返そうと考えていたのですが、時間があるため、浅井久政が自害した小丸まで行って見ようと決心をしました。
しかし、横着して本丸へ入ったところまで戻らず、本丸と中丸の脇にある深さ10mとも言われる「大堀切」へと、急斜面を直接降りてみましたら、見事「滑り落ちました」次第です。
その結果どうなったか?、事の次第は下記ページに詳しく記載していますので、もしよろしければご覧頂けますと幸いです。

琵琶湖東岸の湖北・湖東にある戦国時代史跡スポットを巡る1泊2日の旅

落ちた後に撮影したのは、下記の大堀切から撮影した中丸です。

小谷城の大堀切

小谷城の大堀切から退却する際に、そそくさと撮影したのは下記のお局屋敷跡の看板です。

小谷城の御局屋敷跡

下記は小谷城から横山城方面、すなわち姉川合戦場方面の展望となります。

小谷城から横山城方面の展望

ともあれ、機会があれば賤ヶ岳も行きたいですし、また登ってみたい小谷城でした。





登山口は、清水谷の小谷城戦国歴史資料館付近の無料駐車場辺りから登る2コースと、小谷寺がある付近の戦国ガイドステーション側から、私のように登る方法など、いつくかあります。
下記は小谷城戦国歴史資料館側から登る「追手道」です。

小谷城の追手道

追手道の登山口には、磯野員昌の屋敷跡もあります。

磯野員昌の屋敷跡

さて、小谷城への交通アクセス・行き方ですが、JR北陸線・河毛駅から歩きますと小谷城の麓までは徒歩約30分です。
戦国ガイドステーションがある場所は下記の地図ポイント地点となります。

小谷城戦国歴史資料館

小谷城戦国歴史資料館は、近江・小谷城の麓、清水谷武家屋敷跡にある小谷城の歴史資料館です。

小谷城戦国歴史資料館

入館は200円と有料ですが、戦国大名の浅井氏と小谷城の2つをテーマにした展示が行われています。
日本100名城のスタンプがある場所もここでして、設置されているようです。

小谷城の御殿がある福田寺

長浜ドームからほど近い「福田寺」の境内には、小谷城の御殿を移築した浅井御殿と呼ばれる書院(福田寺御殿)があり、滋賀県の文化財に指定されています。

福田寺

下記の書院が浅井御殿です。

浅井御殿

また、福田寺の寺伝には下記のような話があります。

「浅井長政とお市の間には、三人の娘のほかに、男の子が二人いた。上の子が万福丸、下の子が万菊丸といった。小谷城落城時に二人とも脱出したが万福丸は発見され磔刑、あるいは串刺しにされたが、生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は幸い誰にも気づかれることなく福田寺で養育された」

このように、浅井長政の次男・万寿丸は出家し、近江長沢村であるこの福田寺の住職となりました。

福田寺

福田寺へのアクセス・行き方は、下記の地図ポイント地点が境内駐車場入口となります。

なお、福田寺の住職となった浅井万菊丸は、その後家臣に連れられ、諸国を流浪したと言う説もあります。
小倉城主・細川忠興の保護を受けて、晩年は豊後高田城下で余生を過ごしたともあります。
また、浅井万菊丸の長男は肥後の細川藩士、次男は豊後・杵築藩士として明治維新を迎えたということになっています。

下記は杵築城にて展示されている浅井万菊丸着用の甲冑です。

浅井万菊丸の甲冑

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攻略難易度
中級者向け
旧国名
近江
著者コメント
結構な山城ですが、整備はされています。




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