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水戸城 徳川御三家の日本100名城 見どころポイント

水戸城

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水戸城の歴史

水戸城(みと-じょう)は、茨城県水戸市にある標高30mの連郭式平山城で比高は24mになり、江戸時代には徳川御三家「水戸・徳川家」の居城でした。
北には那珂川が流れており、南西にある大きな千波湖を天然の堀にしていました。
別名は、馬場城、水府城とも言い、日本100名城にも選ばれています。


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最初の築城は古く平安時代後期(鎌倉時代初期)の建久年間(1190年~1198年)で、筑波の石田館主・平国香の子孫である馬場資幹(大掾資幹)が屋敷を構えたとされます。
この頃の大掾氏(だいじょうし)の本拠は、多気義幹の常陸・多気山城でしたが、源頼朝から馬場資幹(大掾資幹)が常陸大掾職に任ぜられました。
こうして馬場城は、大掾氏の本拠地として長らく使われます。
水戸城の写真とともにご紹介を続けます。

水戸城

しかし、守護職は、鎌倉時代には常陸・小田城小田氏が、室町時代には佐竹氏が常陸守護を務めました。
そのため、常陸の統治において、守護から見ると大掾氏は邪魔な存在になります。

水戸城

1416年、、上杉禅秀の乱では、足利幕府側にいた河和田城主で常陸守護代の江戸通房が大掾満幹を破り、水戸城を失いました。
大掾満幹が青屋祭見物で、常陸・府中に向かった隙に水戸城を奪われたとあります。
その後、大掾氏は、常陸・太田城主である佐竹義人の3男・大掾憲国が当主になっています。

水戸城

こうして、水戸城は江戸氏の本拠となりましたが、戦国時代佐竹義重が勢力を伸ばすと、江戸重通は従属する形を取っています。

水戸城

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、佐竹義宣・佐竹義重は、小田原に参じました。
しかし、江戸重通は留守中の反乱を警戒したようで小田原に行けませんでした。

水戸城

これを口実に、佐竹義宣は江戸氏・大掾氏らの勢力を討伐することが黙認され、佐竹氏は水戸城を攻略しました。
豊臣秀吉は佐竹氏に54万国を安堵し、水戸城の江戸重通は結城晴朝の下へ落ち延びたほか、大掾氏の常陸・府中城も佐竹氏が占領しました。

水戸城・杉山門

以後、水戸城は佐竹氏の本拠として大改修しました。
下記は二の丸と本丸の間にある大堀切で、現在はJR水郡線の線路が通っています。

水戸城の堀切

これだけ規模の大きな堀切も全国的は珍しく、このように水戸城は土の城になっています。

水戸城の大堀切

しかし、1600年、関ケ原の戦いにて佐竹義宣は積極的に徳川家康に味方しなかったため、1602年に秋田の久保田城に減封となりました。
その後、水戸城には、徳川家康の5男で、武田家の名跡を継がせた武田信吉が、下総・佐倉城から25万石にて移っています。
下記は二の丸と三の丸に間の堀切です。

水戸城の堀切

しかし、翌年1603年に、武田信吉は僅か21歳で死去し、断絶しました。
そのため、徳川家康の10男・徳川頼宣が僅か2歳にして、20万石の水戸藩主となりました。
実務は財政面を蘆沢信重が、行政は関東郡代・伊奈忠次が取り仕切ったと言います。
徳川頼宣が1609年に駿府城50万石に転封すると、徳川家康の11男・徳川頼房(6歳)が下妻城から25万石で水戸藩主となり、徳川御三家のひとつになる水戸・徳川家が成立しました。
なお、ほとんど駿府や江戸藩邸に滞在したため、徳川頼房が水戸城に入ったのは1619年、17歳のときが初めてだったと言います。


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水戸城では幕府に遠慮して天守は建てらず、櫓や門なども少なく、尾張藩の名古屋城紀州藩和歌山城に比べるとかなり質素だったようです。
石垣を一切用いない土塁で構成されており、空堀などは大規模ですが、佐竹時代の旧二の丸であった本丸は、ほとんど倉庫として使用していたそうです。
下記は現在の本丸入口で、本丸跡は、水戸第一高校になっています。

水戸城・本丸跡

水戸城移築薬医門など、見学する場合に限り、立入が認められています。
見学可能時間は、朝8時30分~夕方16時30分までと記載されていました。
薬医門は水戸市内の神社に移築されていたものを、1981年(昭和58年)に現在地に再移転したものになりますが、現存建物です。
お医者さんが入城する門でこの大きさですので、ビックリです。

水戸城・薬医門

なお、二の丸に大きな三階櫓(内部は5階建て構造)があったと言います。
もっとも、水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わず、藩主は基本的に江戸に常駐した特別な藩であり、経費もかさみ藩財政は苦しく、水戸藩の農民も高い税金などに苦労したと伝わります。

水戸城

三の丸にある藩校・弘道館は国の重要文化財で国の特別史跡、日本遺産になっていますが、これは幕末の1841年に、9代藩主・徳川斉昭が設けた教育機関になります。

弘道館

諸藩が設置していた藩校の中でも日本最大級で、総合大学のような教育内容になっており、徳川慶喜もここで学びました。
更に徳川斉昭は1842年に、日本三名園のひとつになる水戸偕楽園も開設しました。
偕楽園は別のページにて詳しくご紹介させて頂きます。

幕末には改革派と保守派で、水戸藩の藩論が2分し、筑波山普門寺などで挙兵した天狗党の乱では、水戸城を天狗党が攻撃しており、このとき城内の多くの建物は焼失したと言います。

また、太平洋戦争の水戸空襲で、現存していた三階櫓も焼失しました。

大手門跡に、水戸城大手門の復元工事が行われており、2019年9月に完成予定ですので、楽しみです。

水戸城大手門

大手門以外にも、約8億6400万円にて水戸城の二の丸角櫓(すみやぐら)と土塀の復元も進める計画になっているそうです。

水戸城大手門

水戸城への行き方

水戸城への交通アクセスですが、JR常磐線の水戸駅から徒歩約10分と近いです。
駐車場は、弘道館脇に駐車場が約10台あります。
日本100名城のスタンプは、弘道館の料金所窓口にありますので、当方のオリジナル地図でもわかるようにしておきます。
なお、弘道館の駐車場が満車の時には、西隣にある茨城県三の丸庁舎駐車場を利用すると、弘道館料金所で駐車券を提示することで3時間無料になります。

なお、水戸城跡には、現在、学校などの公教施設があり、すべてが見学できるように開放されている訳ではありません。

水戸城跡

三の丸跡は、三の丸小学校は立入禁止ですが、弘道館は有料拝観可能です。
講道館の北側には道路に面して土塁と空堀が良く残っています。

水戸城

御三階櫓があった二の丸跡は、水戸城二の丸展示館以外は見学不可となります。

水戸城二の丸展示館

水戸城の見学所要時間は、国特別史跡で有料の弘道館も含めまして、約60分といったところです。
水戸駅からですと、ちょっと坂道を登りますが、約90分あればかなりの部分を見れます。
全部行かずに、大手門付近だけでしてら、水戸駅から徒歩往復で最短所要時間30分以上となります。
水戸駅近くには、水戸光圀(徳川光圀)が生まれた場所になる義公祠堂もあります。


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偕楽園なども見学する場合は、水戸駅の北口にて電動自転車をレンタサイクルするか、バス乗り放題になり弘道館や偕楽園が割引にもなる「水戸漫遊1日フリーきっぷ」がお勧めです。
佐竹氏だけでなく、武田信玄にもご興味がある方は、常陸・武田氏館もセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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