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岐阜城(稲葉山城)の解説【日本100名城】戦国時代ではない今でも賑わっている?

岐阜城

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岐阜城(稲葉山城)とは

岐阜城(ぎふ-じょう)は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城日本の歴史公園100選にも選ばれています。
美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となります。
その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山(きんかざん)となり、旧名は稲葉山と言います。
そのため、古くは稲葉山城(いなばやま-じょう)と呼ばれ、更に別名としては金華山城、井口城とも呼ばれます。

最初の築城は鎌倉時代までさかのぼりますが、1201年に二階堂行政が稲葉山に築城したのが始まりとされます。
その後、戦国時代になった1525年には斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃し、長井家の支配下となり、城としての整備が始まります。
長井新左衛門尉が1533年に亡くなったあとは、その養子の斎藤道三が稲葉山城主となりました。

稲葉山城

1539年頃には、斎藤道三が稲葉山城を拠点として改修し、現在の場所に伊奈波神社を移したと伝わり、麓に本格的な城下町を整備しました。

1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしましたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃しています。
その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせました。

そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握ります、
1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居しました。

その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死します。

岐阜城からの展望

上記写真の長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所です。

斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退しています。
1564年、竹中半兵衛安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こりました。

岐阜城

西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。
以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行いました。

岐阜城

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問しています。

1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となりました。


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1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従します。
1582年6月27日、清須会議(清洲会議)のあと、織田信孝が岐阜城に入り、柴田勝家と組んで、次第に豊臣秀吉と対立。
1583年、柴田勝家が敗れて、織田信雄が岐阜城を包囲すると、塀の逃亡が相次ぎ、僅か27名となった織田信孝は降伏。その後、切腹させられました。
その後、池田恒興が美濃13万石となり大垣城に入ると、岐阜城主には池田元助が就任しました。

1584年、小牧・長久手の戦いで池田恒興と池田元助が討死すると、池田輝政が岐阜城主になっています。
1591年4月、小田原攻めのあと、豊臣秀勝が岐阜城主となりました。
1592年9月9日 – 豊臣秀勝が死去すると、織田秀信(三法師)が美濃・岐阜13万石として岐阜城主となっています。

岐阜城

1600年、織田秀信は、関ヶ原の戦いの前、石田三成の挙兵に呼応して岐阜城に籠城。
関ヶ原に向かう、福島正則や池田輝政らが岐阜城を攻めると落城し、織田秀信は弟・織田秀則と共に自刃しようとしたところ、池田輝政の説得を受けて降伏しました。

関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は、岐阜城を廃城として、奥平信昌に10万石を与えて加納城を築き、岐阜城から天守閣や櫓などが移築されたと言います。
以後、江戸時代には稲葉山への立ち入りは禁止されました。

岐阜城

岐阜城の見どころ

昭和31年に、戦後復興のシンボルとして現在の天守が建てられました。
最初に建造された模擬天守は、明治24年であり、日本で最初に作られた模擬天守であったそうです。

岐阜城からの展望

しかし、岐阜城の天守閣からの眺めは本当に素晴らしいですね。 
金華山はまさに山城になるべく、生まれた山と言って過言では無いでしょう。
標高約330mと言う、東京タワーと同じくらいの高さから、360度の展望が望め、関ヶ原への入口に当たる大垣城も監視できます。

岐阜城からの展望

写真の日は天気が下り坂でしたので、申し訳ないのですが、それでも360度の展望はスゴク印象的でした。

岐阜城の尾根

山城が観光地になっている?はてまた、観光地に城があったと言う事なのか?、城がある比高320mもの山城に、これだけの観光客が訪れるところは、未だかつて経験がないです。

岐阜城

大変、岩がゴツゴツしている山ですので、そのお蔭で急峻な難攻不落と言えます。

岐阜城の山頂部

でも、山頂部は思ったより広い場所はなく、何万・何千もの多人数で山頂に籠城するのは無理です。

岐阜城の井戸

当然、物資を上げるだけでも、かなりの労力がいると推測しますが、上記のような井戸(金銘水)も山頂部に見受けられましたので、籠城は可能であったのでしょう。
しかし、籠城と言っても主に麓からちょっと高い所の曲輪などに主力を置いて、山頂部は遠方の監視や指揮所として機能させたと考えた方が良いですね。

岐阜城

ロープウェーを使わなくても、登山道で上り下りも可能です。
一般的なのは「七曲り登山道」で、かつては岐阜城への大手道でした。現在でもよく整備されており、道幅も比較的広いです。所要約50分(登り60分)。
「馬の背登山道」は麓のロープウェー乗り場付近から、岐阜城までの最短コースです。急斜面もありますので、登山道のスタート地点には「お年寄りや幼児には無理です。」と記載されています。
禅林寺の石段の南から登れるのが「百曲り登山道」で、馬の背コースの次に短いコースですが、健脚向けです。所要約40分(登り50分)。
高齢者や小さなお子様がいなければ、登りはロープウェイ片道利用して、下りは歩いたほうが、混雑時には早いと断言できます。

岐阜城

中国人と思われる海外からの観光客も多数訪れていました。
写真が多くなりましたので、岐阜城の麓部分は別ページをもうけたいと思います。

織田信長の館跡、岐阜城の麓の居住部分

岐阜城への行き方

金華山・岐阜城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス・N80の高富行きなど、長良橋方面行きまたは「市内ループ線左回り」で約15分「岐阜公園・歴史博物館前」バス停下車です。
金華山ロープウェーは片道約3分、山頂駅から岐阜城までは多少の登りがありますが、徒歩8分といったところです。
金華山ロープウェーはJAF割引が使えます。

岐阜公園堤外駐車場(最初の1時間は無料)の場所は、下記の地図ポイント地点となります。
国道から脇に道をそれて、住宅街の中から駐車場に入る形となりますので、地図を良く見てお出かけ願います。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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