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下妻城(多賀谷城)の解説~多賀谷氏家から始まった広大な下妻城

下妻城(多賀谷城)

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下妻城(多賀谷城)

下妻城(しもつまじょう)は、常陸国関郡下妻荘(茨城県下妻市)にあった平城(丘城)で、多賀谷城(たがやじょう)と呼ばれることも多いです。
かつて、周囲は湿地帯であり、湿地帯に囲まれた微高地であることから、平城とも丘城とも言えます。
その微高地は、武蔵・忍城と同じように、島のようになっていた可能性もありますが、今では、ほとんど埋め立てられています。

下妻城

最初の築城は不明ですが、平安時代の1086年に、大宝城主としてある下津間盛幹がいます。
下津間氏は、4代・下津間弘幹のとき、滅亡したようですが、その下津間氏の一族が、下妻に館を持っていても、おかしくはないと存じます。


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ハッキリとわかるのは、1461年頃に、多賀谷氏家が下妻城を築いたとされます。
多賀谷氏(たがや-し)は武蔵七党・野与党の一族で、もともとは、埼玉郡騎西荘多賀谷郷が発祥となり、加須に多賀谷氏館があります。
鎌倉時代には、多賀谷家政(多賀谷左衛門尉家政)が、源頼朝に従っていました。

南北朝時代のはじめ、結城直光が武蔵国足立郡に所領を得た際に、多賀谷氏は、結城氏の家臣に加わった模様です。
この結城直光は、教養もあり、優秀な武将で、いくつも武功を挙げます。
そして、1380年、下野守護・小山義政が、鎌倉公方・足利氏満に対して反乱した「小山義政の乱」の活躍にて、結城直光が、下妻付近を加増されました。

多賀谷城

多賀谷政朝の娘が、結城満広の子・結城満義(結城光義)を婿に迎えており、多賀谷氏は、結城満義が継いで、多賀谷満義と称しています。

多賀谷氏家

多賀谷氏家(たがや うじいえ)は、結城氏の重臣・多賀谷光義の子として、1408年に生まれました。

1438年からの永享の乱にて、鎌倉公方・足利持氏が、室町幕府の足利義教に敗れて自害すると、結城氏朝は、足利持氏の遺児である春王丸と安王丸らを、結城城に迎えて室町幕府と敵対します。
その頃、父・多賀谷満義は、すでに、結城城に帰っていたとされており、多賀谷氏家が家督を継いでいたとも考えられます。
そして、1440年、室町幕府側の上杉清方・今川範忠・小笠原政康などが、結城城を包囲して、結城合戦となり、父・多賀谷満義は討死しています。
結果的に、1441年、結城氏朝・結城持朝は討死して結城城は落城しました。
この時、多賀谷氏家は、まだ4歳くらいの結城成朝を抱いて、結城城から脱出し、常陸国の佐竹家を頼って、結城成朝を養育したとされます。


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ちなみに、南総里見八犬伝では、結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて、落ち延びるところから始まっています。

1450年になると、足利成氏古河公方に就任し、結城成朝は、結城城に戻って結城家を再興しました。
1451年、足利成氏の命を受けて、多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟は、関東管領・上杉憲忠の鎌倉・西御門館を急襲し、上杉憲忠を討ち取っています。
享徳の乱、分倍河原の戦いとなり、敗れた上杉顕房が自刃すると、扇谷上杉家の家宰に太田道灌が就任しています。

1455年、飯沼氏一族の堀戸氏を滅ぼし、多賀谷家稙(多賀谷朝経の子)が、常陸・関城に入ったともあります。

これらの功績もあり、1461年、多賀谷氏家は、下妻三十三郷を与えられ、結城家の家老の身分でありながら、関東諸将の会合に列席を許されると言う独立性の高い地位を得ました。
そして、大宝沼の岸に、下妻城(多賀谷城)を築いたと言う事になります。
最初は、下妻館と言ったほうが、良いかもしれませんが、東館を本丸として、2廓ほどの単純な屋敷だったようです。


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多賀谷氏は結城氏に属しながらも、古河公方・足利成氏にも臣従しており、やがて、結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強めていきます。
1463年には、多賀谷祥英(多賀谷朝経)が、結城成朝を殺害したという話もありますが、真偽は不明です。
1465年に、多賀谷氏家は死去。

なお、戦国時代の多賀谷氏は、すでに、結城氏の領地の2倍くらいを領有しております。
そのため、多賀谷城(下妻城)も、拡大を続けたようで、多賀谷重経のときには、南北1.5km、東西1.5kmと、今の下妻市の中心部が、まるまる、城域となっていたようで、常陸では、水戸城に継ぐ規模の経済中心地となりました。

多賀谷重経は、豊田治親の下総・豊田城を、小貝川をせき止めて、水攻めして、落城もさせています。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めのあとの仕置にて、佐竹氏にも従っていた下妻城主・多賀谷重経は、徳川家康の子・結城秀康の家臣になるよう命じられます。
これに不満を唱えた多賀谷重経は、佐竹家に従う行動を取り、結城秀康に従った嫡男・多賀谷三経を追放しました。
このため、佐竹義重佐竹義宣を多賀谷重経の養子にし、多賀谷重経には一時、常陸・太田城を与えたようです。
しかし、1600年、関ヶ原の戦いの際に、多賀谷重経は、徳川勢に従わなかったため、下妻城などの6万石の領地は没収され、多賀谷重経は流浪の末、1618年に死去しました。


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その後、下妻は一時、天領となりましたが、1606年に、徳川家康の11男・鶴千代(徳川頼房)が5万石で、下妻藩主となっています。
1610年、鶴千代かせ、水戸25万石で移封して、水戸藩主になると、下妻は再び天領となりました。

1615年、松平忠昌が下妻に入り、続いて松平定綱が下妻藩主になりますが、その期間も短く、1619年には天領に戻っています。
以後、1712年に、井上正長が1万石で下妻藩主となると、幕末まで、下妻駅の西側(下妻一高の場所)に、下妻陣屋が置かれました。

下妻城(多賀谷城)

多賀谷城跡公園にある、土塁のような上に、下妻城(多賀谷城)の石碑が残っていますが、そり他の遺構は、市街地化しており、見当たらないようです。
見学所要時間は10分程度あれば充分です。

交通アクセス

多賀谷城跡公園への行き方ですが、関東鉄道・常総線の下妻駅から徒歩約5分と近いですが、鉄道の本数は少ないのでご注意を。
駐車場は、城跡公園の北側にに、15台ほどの無料駐車場があり、公衆トイレもありました。
当方のオリジナル地図にてポイントております。


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北にある、大宝城とセットでどうぞ。
この付近、見ごたえですと、逆井城、常陸・小田城真壁城が良いです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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