奈良県

吉野城(金峯山城) 護良親王や後醍醐天皇の南朝拠点となった要害

吉野城(金峯山城)

吉野城(よしのじょう)は、奈良県の吉野山一帯にある中世山城です。
別名は、金峯山城(きんぶさん-じょう)とも言います。

最初の築城は、南北朝時代の正慶元年(北朝)/元弘2年(南朝)(1332年)で、後醍醐天皇の子である護良親王(もりよし-しんのう)が築きましたと言うより、吉野山を城として活用しました。

付近には大和・丹治城などの支城もあります。
吉野山としては、国の名勝・国指定史跡となっている他、世界遺産にも選ばれました。





そもそも、吉野は、修験道で有名な大峰山への登山口として発展し、吉野山の尾根にはたくさんの寺院宝塔がありましたと言うより、今でもあります。
この吉野山の尾根は、細長く、両側は急峻な斜面であるため、天然の要害とも言え、その地勢に目を付けて、城郭(山城)としても使えたのです。

大塔宮之吉野城(積善館)の城跡としては、吉野城内郭の他に出城として六田塁、一之坂塁、丹治塁、飯貝塁があり、丈六平、薬師堂付近も防御態勢が取られていた模様です。
あとは、蔵王堂が本営で、火見櫓、花矢倉、そして高城詰城と構成されていました。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒そうと計画しましたが、六波羅探題に察知されて、側近の日野資朝佐渡島へ流罪となります。
その後、1331年に鎌倉幕府打倒の2度目の挙兵をし、笠置山にて挙兵しました。
元弘の乱(げんこうのらん)と言います。
これに呼応したのが護良親王で、還俗すると奈良・般若寺に入ります。
楠木正成も河内・下赤坂城で挙兵しています。
しかし、1332年、後醍醐天皇は捕縛されて、隠岐島へ流罪となり、日野俊基や北畠具行、そして佐渡にて謹慎していた日野資朝も処断されました。

十津川の黒木御所を経て槇野城に入りましたが、手狭だったため、吉野山に入って籠城し、吉野城とした訳です。
いつ頃、吉野に入ったのかは不明ですが、吉水院の宗信法印が吉野山の衆を説得し、護良親王を迎えたと伝わります。

護良親王は、吉野城を拠点として、赤松則村・赤松則祐、村上義光、木寺相模らとともに十津川・吉野・高野山などで転戦して、約2年間、鎌倉幕府軍と戦いました。

鎌倉幕府側の軍勢としては、大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(足利尊氏)、新田義貞らとなっており、やがて吉野城も陥落しました。

しかし、楠木正成と護良親王は潜伏して抵抗を続けたため、鎌倉幕府の執権・北条高時は関東より30万の大軍を派遣します。
1333年1月、吉野には二階堂貞藤、金剛山には大仏家時、赤坂城には阿蘇治時がそれぞれ大将となって攻撃開始しました。

2月18日、二階堂道蘊ら6万の大軍は、吉野の吉野城(金峰山城)を攻めました。
護良親王は蔵王堂にて抵抗しましたが、その鎧には7本の矢が刺さったと言います。
そして、もはやこれまでと四本桜の場所(下記)にて酒宴を開いたとされます。

金峰山寺の四本桜

そこに、16本の矢が刺さっていた村上義光が撤退してきました。
村上義光は、護良親王の鎧をもらい受けると自ら着用して成りすまし、身代わりとなって蔵王堂前にあった二天門の高櫓で切腹し、護良親王を逃したと言います。
下記が二天門跡です。

二天門跡

護良親王は高野山を経由して、楠木正成の千早城へ逃げ延びました。

この隙をついて、後醍醐天皇は閏2月24日に隠岐国の配所から脱出して船上山に入り「討幕の綸旨」を全国に発します。
そして、播磨の赤松則村、伊予の河野氏、肥後の菊池武時らが蜂起したため、千早城を囲んでいた鎌倉幕府勢も相次いで帰国を始めました。
また、後醍醐天皇から誘いを受けていた足利高氏(足利尊氏)は、鎌倉幕府を裏切り、赤松円心、近江の佐々木道誉らと京の六波羅探題を陥落させます。
更には、新田義貞を中心とした叛乱も関東で発生し、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込むと言う形勢逆転に成功しました。

このように、鎌倉幕府滅亡に大きな功績もあった護良親王でしたが、父・後醍醐天皇からは疎まれており、高く評価された足利尊氏とも仲が悪くなります。
そのため、建武元年(1334年)には父の命を受けた名和長年、結城親光らによって逮捕されます。
そして、鎌倉府将軍・成良親王を奉じて鎌倉にて執権となっていた足利直義(足利尊氏の弟)に、身柄が預けられ、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉の身となりました。
しかし、翌年、北条時行を奉じた諏訪頼重による中先代の乱となり、関東各地で足利勢が敗れます。
そのため、護良親王は、諏訪頼重らに奉じられる事を警戒した足利直義の命にて、淵辺義博が殺害しました。

淵辺義博と淵辺義博居館・淵野辺の地名~西郷隆盛の護衛隊長・淵辺群平も

護良親王幽閉の際に寵妃として仕えていた雛鶴姫(ひなづるひめ)は、追手に追われながら幼子を連れて山梨方面に逃避行しています。

雛鶴姫~後醍醐天皇の第1皇子である護良親王の子を宿すも秋山へ

護良親王が命を落とした東光寺跡には、現在「鎌倉宮」がありますが、明治天皇の命にて造営された神社となります。

護良親王の墓と鎌倉宮(大塔宮)

建武の新政が失敗し、1336年(建武3年)には、後醍醐天皇が花山院を脱出して吉野山に入れます。
後醍醐天皇は、はじめに吉水院に滞在しましたが、手狭だったので、金峯山寺・蔵王堂の西にある実城寺を改築して、南朝の皇居としました。
寺号も金輪王寺と改めていますが、現在の吉野朝宮跡となります。

吉野朝宮跡

そして、後醍醐天皇は、1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)に吉野の地で崩御し、跡は後村上天皇が継ぎました。

その後、1348年に四條畷の戦いで楠木正成の子である楠木正行と楠木正時の兄弟が足利勢の高師直に討ち取られます。
この高師直は、吉野も攻めてため、後村上天皇は賀名生(五條市)に移り、吉野山は火に包まれ灰燼に帰したと言います。

なお、現在の蔵王堂は戦国時代の1581年(天正9年)に火災で焼失したあと、1591年(天正19年)に再建されたものとなり、国宝に指定されています。

金峰山寺・蔵王堂

吉野は豊臣秀吉が「花見」をしたことでも有名で、サクラの時期は現在でも観光客で大変混雑します。
しかし、通常の土日などは比較的すいていて、観光しやすいです。
ただ、山の上と言う事もあり、駐車場がとても少なく不便です。
当方が利用した駐車場などは、当方オリジナル地図でもわかるようにしてありますので、ご参考賜りますと幸いです。

あと、吉野に来たからには、名産「吉野葛」も頂きましょう。

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攻略難易度
初心者向け
旧国名
大和
著者コメント
城としての遺構はほとんど残っていませんが、歴史上、とても意味深い地です。

 

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