新潟県

越後・平林城 見事な居住部遺構 色部勝長と色部長実など

越後・平林城

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越後・平林城(ひらばやし-じょう)は、新潟県村上市平林にある城です。

小泉庄を領した平林内蔵助ら、平林氏の居城であったとされます。
南北朝の動乱にて、平林氏は色部氏の意向に反して新田義貞に味方したため、加納の地頭である色部高長に攻められ領地没収になったと伝わります。
そして、南北朝時代には、加護山城と呼ばれましたが、これは、領国である加納庄を護る山との意味があったようです。
その後、戦国時代になるまでの間、加護山城じたいは、ほとんど使われていなかったようです。
ただし、色部氏は、麓の居館部で暮らしていた模様でして、これが平林城であると考えます。


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その居館部は比高10mの段丘上で、広さも結構あり、大規模でして、国の史跡となっています。

要するに、麓の平林城・居館部が平林城であり、裏山となる加護山が詰め城・加護山要害と呼んで良いでしょう。
このページでは、平林城は、根小屋、すなわち丘城とし、山城になる加護山城とは区別してご紹介させて頂きます。
居館跡だけなら、山に登ることなく見学可能です。

越後・平林城

1440年、結城合戦に、色部重長が参加し戦功を挙げており、将軍・足利義教から感状を受けています。

1508年、同じ揚北衆の中条藤資・築地氏らが、力をつけてきた長尾為景に臣従して、平林城を攻撃します。
このとき、色部昌長(いろべ-まさなが)は、加護山城に籠城したようですが陥落し、長尾為景に降伏しました。

平林城ですが、加護山城まで登る場合には「登山届」の提出が必要となっていました。

越後・平林城

色部憲長(いろべ-のりなが)のとき、越後・上条城の条定憲が謀反を起こすと、本庄城の本庄房長が上条勢に属するとの噂が出て、長尾為景は、色部憲長を使者として遣わし、叛意の有無を確かめています。
しかし、本庄房長・鮎川清長・水原政家・黒川清実・中条藤資・五十公野景家・加地春綱・竹俣昌綱など揚北衆の国人らは、上条定憲に味方したため、長尾家の家督は、長尾晴景に譲られ、長尾為景は引退しています。

加護山城

1493年生まれとさる色部勝長(いろべ-かつなが)の頃には、家臣の田中長義、早田守吉、布施家秀が出奔したようで、一族の色部長継が、本庄房長に和解の斡旋を依頼しています。
1539年、上杉定実の養子問題で天文の乱となると、色部勝長は、本庄房長・黒川清実らと伊達晴宗に味方し、伊達稙宗についた中条藤資の鳥坂城を攻撃してました。

越後・平林城

この乱の途中で、小川長資・鮎川清長が本庄城を奪い、本庄房長が没し、両者の調停を色部勝長が行いました。
ちなみに、黒川城主、黒川清実の妻は色部勝長の妹です。

越後・平林城

それから12年後の1551年、本荘房長の子・本庄繁長が、小川長資に仇討ちをし、更に鮎川清長の大葉沢城を攻めようとしたときに、再び色部勝長が仲裁しています。

越後・平林城

上杉謙信に従った色部勝長は、1561年、第四次川中島の戦いにて、柿崎景家の危機を救うなど奮戦したため、安田長秀・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬・垂水源二郎(荒川長実)らと共に血染めの感状を受けています。
下記は越後・平林城の土塁ですが、大きいです。
堀を掘った土を用いたのでしょう。

越後・平林城の土塁

永禄7年(1564年)、下野・佐野城の戦いでも戦功を挙げ、感状を賜わりました。
このとき、2年間、佐野城主を任されています。

1569年、本庄繁長の乱が起こった際に、上杉勢として村上城の包囲に加わりましたが、夜襲に遭って色部勝長は討死しました。
ただし、死因は病没ともされます。

越後・平林城

家督は、子の色部顕長(いろべ-あきなが)が継ぎましたが、体が弱かったようで、1576年に、弟の色部長実に継承させて、隠居しています。

越後・平林城

色部長実(いろべ-ながざね)は、1578年、御館の乱にて上杉景勝に協力しました。
その後、天正9年(1581年)に勃発した新発田重家の乱では、正室が新発田重家の妹であったため、新発田家との交渉などを任されています。

越後・平林城

天正16年(1588年)、上杉景勝が上洛した際には、直江兼続・須田満親らと随行し、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されました。
豊臣秀吉は、色部長実のことを「北国路、まれに見る武将」と評したと言われています。

越後・平林城

1590年、仙北一揆では豊臣秀吉の命を受けて、出羽・大森城に入り、大谷吉継と共に刀狩などして鎮圧しています。
越後・平林城ですが、下記のように家臣らの屋敷があったであろう場所もスペースは広いです。

越後・平林城

天正20年(1592年)、朝鮮攻めとなると、上杉景勝に従い肥前・名護屋城に向かいましたが、その途上で色部長実(色部長真)は病となり、帰国後、京の伏見らて療養しました。
しかし、死を悟ると、大石綱元と木戸元斎に、色部家を直江兼続に頼むこと、直江兼続の次女を子である色部龍松丸(色部屋光長)の妻に迎えたいこと、自分の娘を直江兼続の養子にしてもらいたいことを遺言状として残しています。
そして、1592年9月10日に病死。享年40。

越後・加護山城

家督は嫡子・色部光長が相続しました。

越後・平林城

色部光長(いろべ-みつなが)は、1587年に新発田綱貞の娘との間に生まれた幼子で、元服するまで直江兼続が後見しました。
また、遺言に従って直江兼続の妹(直江兼続の次女とも)が正室となっており、上杉家でも重用されました。

越後・平林城

1598年、上杉景勝が会津に移封となると、色部光長は10000石にて出羽・金山城主となっています。


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越後・平林城への交通アクセスですが、JR羽越線の平林駅から歩いて20分ほどとなります。

居住部から、要害本丸までは徒歩60分ほどとなりますが、ハイキングコースは整備されています。
また、無料の駐車場と、新しいトイレも完備されています。

越後・平林城

ぜひ、ご訪問なさってみて頂ければと存じます。
越後・平林城の見学所要時間は、居住部だけであれば30分ほどとなります。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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