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八王子城~東京にある本格的な日本100名城と登り方

八王子城

八王子城(はちおうじじょう)の山頂の曲輪まで訪れた際の記録を、戦国時代に八王子城を攻めた「前田利家」の視点からお伝えしてみたいと思います。全部で第4章までありますが、まずは八王子城が落城した話から・・。

天下統一事業の最終段階として、未だ臣従しない関東の覇者・北条氏直を攻略する為、豊臣秀吉は全国の大名に陣触れを発し、1590年春に小田原城を目指した。

一方、豊臣秀吉の攻撃をある程度予測していた北条家では、数年前より小田原城の拡大修築や八王子城、山中城韮山城などの築城・改修を進め防備を固めていた。
しかし、豊臣の軍勢が約20万の大軍と知ると、小田原城に北条家の主だった諸将を集め、戦力となる若手中心の精鋭や領民を城内に入れて60000での籠城策を取る。
その結果、関東の各諸城には老兵など最低限の防衛兵しか置くことができなかったが、農民も城に入れて籠城することで、各地で抵抗をすれば豊臣勢の兵力を分散もでき、兵糧の浪費も期待でき、支城の防備はこれでよかった。
特に大軍の場合、長期戦になると「補給」が難しくなるとの計算から、北条家の作戦としては悪くは無かった。

八王子城

しかし、小田原城防衛で最も重要だった箱根の山中城が早々に陥落したのは北条家にとって大誤算で、豊臣勢は圧倒的戦力を持って破竹の勢いで4月には小田原城下に到達。
豊臣秀吉は山中城攻略に主力の徳川家康を当てたが総大将は後継者と考えている豊臣秀次とし、徳川家康が豊臣秀次を補佐するような形で、力攻めを成功させて豊臣秀次の功績とし、対外的にも非常に満足いく結果だった。
しかし、豊臣秀吉の戦い方は基本的に自軍の兵力被害を最小限に留める人命優先の戦い方である。
それが故に、ほとんどの北条方の城に対しては、無理して攻めず包囲策を取った為、同時期に攻撃開始した北条氏規が守る韮山城、大道寺政繁が守る松井田城は籠城戦となった。





北国軍としては上杉景勝10000、前田利家・前田利長18000、松平康国・松平康貞4000、真田信之真田幸村3000らが碓氷峠から関東に入り、3月28日から大道寺政繁が守る松井田城3000を包囲し、4月20には猛攻を加えて降伏させた。
以後、大道寺政繁を北国軍などの道案内役も兼ねて帯同させ、北条氏邦が3000で守る鉢形城への攻撃では先鋒もさせた。

垪和康忠の箕輪城岩槻城、鉢形城、武蔵松山城も降伏させると、石田三成直江兼続・真田幸村・長束正家大谷吉継佐竹義重・宇都宮広綱・結城晴朝など20000は、成田長親ら3000が守る忍城を水攻めも開始した。
そんな中、小田原城の守りはやはり堅固であった為、豊臣秀吉も無理はせず、石垣山城の築城を急がせ、引き続き小田原城の包囲を続けていたが、さすがに数か月もたつと士気も下がり気味となる。しかし、北条側は強硬派の北条氏照らの意見が強く、いまだ降伏する気配がなかった。

八王子城の横川村に到着した前田利家・上杉景勝は八王子城に使者を出し「関白様の出向であり、周囲の城も明け渡れている。八王子城も早々に御渡し願いたい。さもなくば即、攻め落とす」と降伏を勧告したが、その使者は殺害されてしまう。
その為、鉢形城攻略成功の報告と、降伏した北条氏邦を連行する為、一旦、八王子包囲から一時離脱して前田利家・上杉景勝は、小田原を訪れた。
これまで、降伏してきた者の命は助けて来たが、豊臣秀吉から「時には皆殺しも必要だ」との言葉を受ける。それは、のち「八王子城の悲劇」とも呼ばれる、余りにも過酷な一言でもあったのだ。

この頃の北条家の当主は北条氏直であった。しかし、父・北条氏政は健在で家督を譲っていたものの北条家内での発言力は未だ強かった。
その北条氏政の弟が、北条家随一の戦上手であり勇猛果敢として知られる北条氏照で、北条氏照の本拠地は八王子城であった。
しかし、八王子の守りは老齢の家老・横地吉信らに任せ、自らは精鋭10000を率いて最重要拠点の小田原城に詰めていた。
豊臣秀吉は「北条一の弓取り」と称される、この北条氏照を一番警戒したと言われており、そんな北条氏照が築城した本拠地・八王子城への執拗な攻撃は、これまで降伏を許していた諸城とは異なり、容赦しない作戦を取り、北条氏照の威信を失墜させる狙いもあったのだ。

八王子城を攻撃した前田勢の立場にて

八王子城では、城代・横地吉信、狩野一庵、中山家範近藤綱秀ら、わずか500将兵が守備し、周辺の領民は農民の子供・女まで2500を加えて総勢3000が八王子城に籠っていた。
もっとも、八王子城の築城開始以降、普請を続けていたので、完成していないと言えば完成はしていないが、主だった防御陣形は出来上がっていた。

八王子城包囲網に戻った前田利家は、横川村の本陣にて攻撃のチャンスを伺っていたのだが、6月22日夜半になると周辺が霧に覆われた。
夜の闇の中、しかも霧が掛かっていればなおさせ視界が悪く、八王子城からの鉄砲射撃を受けても当たる確率は低い。
その為、日が変わる頃から軍を進めて、6月23日朝2時頃から前田利家が攻撃を開始した。

前田利家が攻撃を担当したのは、八王子城の正面。まずは、八王子城の家臣の屋敷が集中する、根小屋付近で八王子城勢の抵抗を受けた。(下記写真が現在の根小屋から八王子城方面)

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しかし、敵の兵力は僅かで打ち破り、近藤綱秀が守備する、八王子城の入口に到達。(下記写真の付近。奥に八王子城の深沢山が見える。)
※各写真はクリックすると拡大します。

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そして「近藤曲輪」で、両軍鉄砲の打ち合いとなった。(下記写真は近藤曲輪付近から、攻めてくる前田勢を見るような光景)

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この時、八王子城側は、霧もあり攻め手の豊臣勢がどのあたりにいるのか良くわからなかったが、 石弓(高所から石を落とす)の戦法で、豊臣勢先陣の大道寺政繁隊・数百人を撃退。
しかし大道寺政繁は「近藤曲輪」を猛攻して近藤綱秀を討ち取る。
そして、急峻な八王子城を登りはじめた。

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小さな曲輪がいくつも現れては攻めに攻め、現れた「金子曲輪」を攻撃。金子家重らを討ち取っり、首級は250を数えたが、この攻撃には、同じく降伏していた松山衆も加わっていた。

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金子曲輪まで攻めた頃には、夜が明けて来たとさせる。
(八王子城の小宮曲輪の下からは、下記のように関東平野を一望でき、晴れていれば筑波山・西武ドーム・東京スカイツリー・八王子市内・相模原市橋本の高層ビル群などの展望が望める。)

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真田昌幸らは、手勢を忍城などにも派遣していた事から、今回は後方支援に回ったのか?動向は不明だ。

一方、上杉景勝は月夜峰の本陣(元八王子1丁目 共立女子付近) から、暗い中、出羽山砦へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打ち破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。

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この太鼓曲輪は平山綱景が守備していたが、見張りが大きな役割であったため少数で、上杉景勝の大軍勢には歯が立たなかった。
なお、北条家に恨みを持っていた上杉景勝の武将・藤田信吉が、八王子城の普請にも当たっていた平井無辺を調略し藤田信吉・直江兼続は、八王子城の弱点である八王子城の山を北側から奇襲する作戦行動を取っていた。

前田利家勢は更に柵門を難なく突破。

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高丸の防衛も打ち破ると、更に深沢山を登った。

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しかし、八王子城は要害の山城であった為、山頂付近の「小宮曲輪」「中の曲輪」「松木曲輪」まで攻め寄せたがこの3つは連携されており、中山家範、狩野一庵の抵抗も激しく苦戦。

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そこに、平井無辺の案内で背後から襲った上杉勢・藤田信吉らが小宮曲輪を襲うと、山頂部分の防衛陣は、総崩れとなった。

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上杉家の猛将・甘糟清長が、陣所を焼くと言う乱戦の中、中山家範と狩野一庵は奮戦するも曲輪の中で自害。(下記写真は、本丸下から見下ろした、中の曲輪の上に建つ八王子神社)

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下記は松木曲輪側から見た、中の曲輪の上の八王子権現で、八人の王子を祀ったのは西暦916年と歴史がある。八王子城の守護神であり、八王子の地名の由来でもあるのだ。

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山頂曲輪の大石照基は、城代・横地景信を逃がす時間を作る為、討って出て討死。
下記は山頂にある本丸の社。津久井城滝山城、鉢形城の本丸部分より狭く、指揮発令所としての役割程度しか持たなかったと考えられる。

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八王子城代として「山頂曲輪」を守っていた横地監物は山伝いにかろうじて逃亡。豊臣勢は残された八王子城の守備兵をことごとく討ち果たし、完全に攻略したのだ。

関東随一の規模を誇る山城である八王子城であったが、その規模は20000の将兵で守る事が前提であった為、農民も含めた僅か3000で、北国軍15000に抵抗するのは最初から無理な話であった。

榊原康政の記録によると、八王子城の戦いは、早朝に終わったとされる。
前田利家は「名城ゆえに犠牲が多く出た」と記し、榊原康政は「鳥や獣が飛び回り(急峻な為)立つのも困難な城」と述べている。

上杉景勝の家臣・須田満統を八王子城・城代として残し、前田利家・上杉景勝らは小田原城の包囲に加わった。

八王子城の魅力と登城の注意

八王子城は、標高460mの関東屈指の大規模な山城です。しかも、築城技術が高かった北条家が普請した防御能力の高い城ですので、平和な現在でも、本丸まで攻略するとなると、それなりの装備と覚悟が必要です。

まず、装備ですが、基本的に「軽登山」の用意が必要です。でも比高220mですので、登山の経験が無くても、装備に問題なければ、どなたでも気軽に登る事ができる比較的優しい山です。
靴は、ハイキング用・登山用のものでないとキツイと言うより危険です。天候が悪そうな時は雨具の準備も必要ですね。
そして、春から夏は、熱中症対策で「飲み物」を持参したいところです。喉が渇いたと思う前に、少しずつ水分を補給するのが重要となります。
山頂付近にはテーブル・ベンチもありますので、お弁当持参でも良いですね。
私の個人的なお勧めとしては、八王子城などの山城に対して「トレッキング・ストック」をお勧めしたいです。


トレッキング ストック

ストック(ポール)があれば、転倒防止にもなりますし、特に下る際に足の踏ん張りを軽減してくれるので、関節への負担を軽減し、体力消耗を抑えられるので、下山後の疲労感も全然違ってきます。これ、ホントです。
山城であれば、2本ではなく、1本のストックがあれば充分。できれば、ポールの中にダンパー(クッション)があるタイプを購入すれば、ポールを持つ腕への負担も抑えられます。
私のいつもの山城装備もご参照下さいませ。

さて、八王子城の無料駐車場は、朝8時30分~17時まで。土日でもイベントが無い限り、満車になることはまずないと思われます。
時間があれば、先に「八王子城ガイダンス施設」(入館無料)に寄って、豆知識を得てから登ると更に楽しめます。
登り口となる近藤曲輪には現在「八王子城野外模型」があるので、その模型を見てから、八王子城に登ると地形や道を把握しやすいです。

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さて、今回は、金子曲輪が見れない旧道からは登らず「新道」から登りましたが、八王子城は所々にベンチがあるので、自分のペースに合わせて小休止しながら登れます。
第2章までの内容で登ったあと、松木曲輪を見て、詰の城方面にちっょと下ると、坎井(かんせい)の井戸が現れました。(標高424m)

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今でも飲めるらしいが、保健所は禁止しているらしく、心配な方は、水を自宅に持って行って、沸かしてから飲むと良いと存じます。
籠城する山城の水の手として、このように井戸などの水源がない城は、長期の籠城が不可能なので、戦国時代の山城をどこに築城するかに当たっては、水か得られると言うのが大前提です。





その後、再び景色を楽しみながら柵門付近まで下がり、柵門の場所から数メートル登った分岐(看板無し)から、山王台方面への狭い道に入り、御主殿に下がる道を下山しました。(旧道への下山道ではないですよ。)
こちら様の八王子城マップが非常に参考になりました。現地にてスマホに表示して、チェックしながら進ませて頂くことができました。
今まで通った開けた道とは異なり、一人が歩行できる程度の狭い道をせっせと進みます。かなり進むと「山王台」に至りましたが、ところどころのクモの巣対策としてストックを振り回すのは非常に効果がありました。

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山王台を下から望むと、山肌に巨石が露出しています。
そして、七曲のようにジグザグの小道を下っていきます。

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そう、この辺りは「石」が多いです。
そして、八王子城の御主殿から登ると、この山王台に到達するので、この辺りも防衛陣地が構築されており、下記のような「石垣」が組まれています。八王子城見所の一つ『四段石垣』です。
戦国時代の関東の城で、石垣が用いられているのは、非常に珍しく、なかなか見れません。(江戸時代以降の築城では石垣は当たり前となっていますが・・。)

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そして、石垣の前にある、ちょっと大きな岩。八王子城主・北条氏照の腰掛石との言い伝えがあります。
当然、私も城主気分になってちっょと座ってみましたが、どうも、石切台?のように見えます。

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そして、カドのとがった石がたくさんゴロゴロしている道を、ひたすら下がっていくと、突然、御主殿北西の端に降りてこられました。
八王子城の全体の感想と致しましては、山頂まで登るのは装備さえあれば、危険な箇所も余り無く、津久井城よりも優しい山城だと感じました。子供連れでも大丈夫です。

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下記は、落城の際、燃えたと言え御主殿跡地から八王子城の山頂を望む写真です。
山頂まで行かなくても、この辺りまでなら、登山の用意不要で普通の靴で、いつでも気軽に訪れる事ができます。

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上記は御主殿の玄関口となる大きな虎口。

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引橋は復元と言うか、大きな木製の橋を掛けたと言う感じですが、戦国時代の橋は、敵が攻めてきたら、橋を引いたりして、渡れなくしていました。
このような引橋(曳橋)は、北条家の城では、滝山城・津久井城・山中城にもあったようです。
ただ、八王子城の引橋は、この写真を撮影した場所から掛かっていたらしく、その遺構を保護している為、現在ある橋の位置は正しくないようです。
なお、現在の橋は橋梁部に変形が発見され安全性に問題が生じた為、2013年9月18日より通行止となっていて、対岸の正式な八王子城への主要道「古道」から渡れなくなっています。
その古道の広さは、築城時はもっと広い道だったようで、織田信長安土城と同等クラスの道路だったとの事です。

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上記の写真は、アシダ曲輪から城山川沿いに繋がる林道から撮影した物です。
この辺りは、城山川を堰き止めて「ダム湖」とし、水を張った堀にしていたとする説もあります。
その為、わざわざ対岸に主要道「古道」を作り、橋で渡したと考えられ、私もそのダム湖説を支持したいと存じます。

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八王子城の有名な「御主殿」の滝。北条氏照の正室や娘などが身を投げたと伝わる滝ですね。川の水はとてもキレイです。
でも、落差は2mくらいなので、身を投げたと言う話は、この川(ダム湖)に身を投げたと言うのが、更に悲壮感を得られるようにした、江戸時代の創作だと推測しています。
心霊スポットとしても有名です。

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大手門があった開けた場所を望みます。
この日は、八王子城を探訪すると言う客人よりは、野鳥の写真を取る高齢者の方が、圧倒的に多かったです。

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2012年にオープンした八王子城ガイダンス施設です。新しいのでキレイで、入館無料。トイレも、もちろんキレイで、お弁当を飲食できるスペースもあります。
日本100名城のスタンプもこのガイダンス施設の受付に設置されています。
八王子城の事がわかりますので、登城前、最悪、帰る際にでも、是非お立ち寄りください。

以上、八王子城の山頂まで登って降りて、約2時間30分の行程でした。

交通アクセスは、土日祝日に限りますが、JR高尾駅北口より「八王子城跡」行きバスも、朝7時から約1時間に1本運行されています。

今回は、時間があったので、まだ訪れていない付近にある「北条氏照と家臣の墓」をお参り致しました。

八王子城主・北条氏照の墓

今回は、せっかくなので、まだ訪れたことが無かった、北条氏照と家臣の墓をお参りさせて頂きました。
ただし、ちょっと八王子城からは離れた場所にあります。

小さい車であれば、墓石の石材工場脇の道路に入り、タイル敷きの細い道を進むと、橋の手前に数台の車を止められるスペースがありますが、八王子ガイダンス施設からだと徒歩でも5分くらいの距離です。

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小さな橋を渡るとすぐに下記の登り口が見えてきます。
きちんと階段になっているのは良いのですが、この手の階段は単調で疲れます。約200段あります。正直、ストックを用いても、八王子城を登った時よりすごく疲れました。

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階段を登り切ったところにお墓があります。
※各写真はクリックすると拡大します。

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真ん中の大きな墓石が、北条氏照の墓ですが、この墓は八王子城が落城した約100年後の江戸時代に造られたものです。
左右は北条氏照の家臣・中山家範と、その孫である中山信治の墓です。
この中山信治は、八王子城で討死にした中山家範(中山勘解由)の次男・中山信吉の4男です。
中山信吉は徳川家康に召し抱えられると気に入られ、水戸藩主の後継として水戸光圀を将軍・徳川家光に推挙した有力者になっていました。
その子である中山信治も常陸の水戸藩附家老であり、常陸松岡藩20000石の大名となっており、この地に供養として墓を建てたのですね。
良く見ると、背後に石塔群がありますが、北条氏照の家臣団の墓とされています。





なお、北条氏照自身は、小田原城下で切腹しましたので、墓とされる物は、小田原駅近くの繁華街の一角に、北条氏政・北条氏照の墓が存在します。

以上で、八王子城訪問を終え、この北条氏照の墓参りは、かなり堪えましたので、駐車場に戻る際、途中の自動販売機で栄養ドリンクを買いました。
そしたら、いつも運が悪い私にとっては、非常に珍しい事が起こりました。なんと、ジュースもう1本の「当たり」となったのですね~。!(^^)!
お陰様で、キレートレモンを無料で調達。
その時、ふと思ったのが、北条氏照殿や八王子城で奮戦した家臣の皆様が、今回の訪問を少しは褒めて下さったのかな?と感じました。
直前に滝山城も寄りましたしね。

と言う事で、お昼になりましたので、戦国炎舞の昼合戦をこなして、よせば良いのに、本日3軒目となる登城に出発したのは言うまでもありません。

※中央高速に乗って小山田信茂岩殿山城に行こうかと思いましたが、北条家繋がりで津久井城を訪問してしまいました。
※この内容はフィクションを含みます。

八王子城の無料駐車場がある場所と、北条氏照の墓がある場所は、当方のオリジナル「城めぐり地図」にてわかるようにしてあります。

前田利家【詳細版】~槍の又左と武勇を称される
北条氏照(大石源三、北条氏輝、北条陸奥守氏照)~北条の戦略家
八王子城落城の悲劇 (八王子城の戦い)
日本全国実用「お城マップ」

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旧国名
初心者向け
著者コメント
山道もある本丸部分までは中級者であるが、麓の部分は初心者でも大丈夫。

 

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