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田丸城をわかりやすく解説【続日本100名城】伊勢・田丸城の様子「田丸直昌とは」

田丸城

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田丸城とは

伊勢・田丸城(たまるじょ)は、三重県度会郡玉城町田丸にある平山城で、続日本100名城に選出されている。
最初の築城としては、南北朝時代の延元元年(1336年)に公卿・北畠親房と子の北畠顕信が築城したとされ、別名は玉丸城、玉丸御所、田丸御所。

田丸城

鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると北畠親房は重用された。
足利尊氏に対抗するため後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、嫡男・北畠顕家と北畠親房は陸奥・多賀城に入って東北の武士を掌握しようとした。

伊勢・田丸城

しかし、1335年、北条氏の残党が蜂起して中先代の乱となると、鎌倉に入った足利尊氏は建武政権から離反し京都占領。
そのため、1336年(建武3年)1月に北畠親房は足利尊氏討伐のため新田義貞楠木正成と合流した。
敗れた後醍醐天皇が京都から吉野に移って南朝となった。
この過程で、南朝の実質的に指揮した北畠親房は、伊勢神宮の防衛もあり田丸城を築いたようだ。


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その後、北畠親房は朝勢力を拡大させるため約5年間、関東にいる。
はじめは常陸・神宮寺城(茨城県稲敷市)、阿波崎城、常陸・小田城常陸・関城、常陸・伊佐城、常陸・大宝城などに移動。
しかし、1342年(康永元年)に足利尊氏が田丸城を陥落させたとある。

伊勢・田丸城

南北朝が統一されたあと伊勢は北畠親房の3男・北畠顕能が伊勢国司だったこともあり、田丸城は北畠氏に戻った。
室町時代後期の田丸城主は愛洲忠行(あいす ただゆき)とされ、伊勢神宮の神領奉行を務めていた。

田丸城

霧山城主で伊勢国司・北畠家第5代・北畠政郷の子・北畠政勝(田丸顕晴)を養子として田丸城を継がせている。
この養子・北畠政勝は玉丸(田丸)氏と称し、北畠一門の三大将の家柄となった。

田丸直昌

田丸直昌(たまる なおまさ)は戦国時代の武将で、北畠家枝連衆・田丸具忠の子として1543年に生まれた。
田丸直昌以外に田丸直息、田丸具直、田丸具安、田丸具康、田丸忠昌とたくさん名前が変わっている。

伊勢・田丸城

北畠具房の家臣であったが、1569年に織田勢は伊勢・大河内城を攻略すると北畠氏は織田信長と和睦。
北畠具豊(織田信雄)が北畠具房の養子となって北畠家に入ると、田丸直昌は織田信雄に従った。
1574年には、織田信雄の軍勢として伊勢水軍を率いて、第3次伊勢・長島城の戦いに参じている。


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1575年、北畠具豊(織田信雄)が北畠家の家督を継ぐと田丸城に織田信雄が入って本拠とした。
北畠信雄(織田信雄)は田丸城を改修して三層の天守を造営するなどし伊勢・大河内城から移っている。
田丸直昌は、新しく岩出の地に伊勢・岩出城を築いて居城とした。

伊勢・田丸城

1576年11月25日、織田信長の策略「三瀬の変」にて長野左京進らが三瀬館北畠具教を誅殺。
同じ日、織田信雄の田丸城では北畠一族の長野具藤(北畠具教の次男)、北畠親成(北畠具教3男)・坂内具義(北畠具教の娘婿)の3名を招き入れていた。
日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが殺害を実行し、他に城内にいた坂内千松丸(北畠具義の長男)、波瀬具祐・岩内光安、長野具藤・北畠親成・坂内具義らも誅殺されている。
また、病の治療のために田丸に滞在しており北畠一族をかばおうとした大河内具良(大河内教通)も、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって殺害された。
当然、田丸直昌の協力もあったものと考えられる。

伊勢・田丸城からの展望

なお、田丸城にて拘禁されていた鶴女(北畠具房の正室)を、北畠家の鳥屋尾満栄(鳥屋尾石見守満栄)と井上専正(井上味兵衛専正)が救出。
鶴女は伊勢・茂原城の吉田兼房に保護されて北畠昌教を出産すると、大和国・飯貝門跡(北畠具教の娘の嫁ぎ先)まで逃したとある。
のち北畠昌教は石山本願寺本願寺顕如を頼り、津軽為信の客分になった。

伊勢・田丸城

1580年、田丸城は放火で炎上し、織田信雄は松ヶ島城へと移ったとある。

本能寺の変のあと、織田信雄と羽柴秀吉が対立するようになると、田丸直昌は妻は蒲生賢秀の娘(蒲生氏郷の妹)だったこともあり羽柴秀吉に接近。
<注釈> その頃、蒲生氏郷は伊勢・亀山城主となっていた。
蒲生氏郷と共に松ヶ島城を攻略して蒲生氏郷が松ヶ島城主になると、田丸直昌は田丸城に復帰し蒲生氏の与力となっている。
小牧・長久手の戦いでは、蒲生氏の軍勢(羽柴勢)となって参陣している。

1588年(天正16年)、蒲生氏郷は松坂城を築いて城下町を移転。


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1590年、小田原攻めのあと蒲生氏郷が陸奥・会津若松城42万石となると田丸直昌は3万石で陸奥・須賀川城に移った。
蒲生秀行が宇都宮城に転封されると、田丸直昌は信濃・海津城、美濃・岩村城4万石と転々した。
関ヶ原の戦いで、田丸直昌は大坂城を守備したことから、助命されながらも家は越後に流罪となり堀秀治に預けられたとも。
1609年、越後・福島城の城下にて没した模様。

さて、1590年?からの田丸城には稲葉道通(稲葉重通の子)が入ったと言う。
この稲葉道通は、兄・牧村利貞が2万600石で城主だった伊勢・岩出城の家督を継いでいる。
その兄が朝鮮攻めにて病死したため、豊臣秀吉の命で異母弟の稲葉道通に遺領が与えられた。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍についた鳥羽城の九鬼嘉隆と戦ったので、稲葉道通は4万5700石となっている。
1607年、稲葉道通が死去すると、子の稲葉紀通が田丸藩の2代藩主に就任した。
1616年、大坂の陣のあと、稲葉紀通は摂津・中島藩4万5700石として移封。
伊勢・津城藤堂高虎が田丸城を加増された。
しかし、1619年からは紀州藩徳川頼宣の領地となり、家老の久野宗成(久野丹波守宗成)が1万石として熊野方面の押えとなり、田丸城主となった。


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久野氏は家老のため和歌山城に詰めており、田丸領6万石は城代が置かれて統治した。
久野氏の管理のもと田丸城は明治維新を迎えた。

日本100名城のスタンプがある場所や御城印は、朝日新聞社を創設(高校野球の甲子園大会を創設)した村山龍平記念館(入館無料)にある。

交通アクセス

伊勢・田丸城への行き方だが、JR参宮線・田丸駅から徒歩10分。
便利な駐車場がある場所を当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしている。
駐車場は公園の中に繋がる道路を登って行くので、本当に進んでよいのか少し不安になるが問題ない。
ただし、例年3月下旬から4月上旬にかけては桜が見頃なので駐車は困難か?
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定するのをお勧めしたい。(徒歩ナビとしても可能)

伊勢・岩出城の解説~4万5700石で稲葉道通が居城とした宮川に近い平城
伊勢・大河内城の解説~大河内顕雅の居城となり北畠具教のときには大河内城の戦い
笠木館(笠木御所)の解説~館と言うよりは笠木城と言って良い巨大な館跡
織田信雄~織田信長の次男のその生涯
三瀬館(三瀬御所)の解説【三瀬の変】北畠具教の隠居城
伊勢・亀山城の解説~城主の関盛信・岡本良勝と現存する多聞櫓
日置大膳とは~松ヶ島細首城主だった日置大膳亮
蒲生氏郷~2人の天下人から厚く信頼され戦国の世を駆けぬけた希有の智将
松坂城の歴史解説【日本100名城】駐車場の場所など~服部一忠・古田重勝とは
名古屋方面の観光に便利なオリジナル地図


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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