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松坂城の歴史解説【日本100名城】駐車場の場所など~服部一忠・古田重勝とは

松坂城

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松坂城

 
伊勢・松坂城(まつさかじょう)は三重県松阪市殿町にある平山城で標高38m、比高30m、国指定史跡、日本100名城にも選出されている。
別名は琴浦城、尼丘城、松阪城とも書く。(地名は「松阪」)
最初の築城は不明だが、城跡からは縄文時代の土器や弥生土器も発掘されているという。

松坂城

松坂城辺りは四五百森(ヨイホノモリ)と呼ばれており、戦国時代の1570年に潮田長助が砦を築いて岸江又三郎、星合直藤(星合左衛門尉)などと籠城し蒲生氏郷に対抗した。
潮田氏は松阪市の伊勢・神山城が本拠で北畠具教・北畠具房の家臣であった。
<注釈> 潮田氏の発祥は平安時代末期で武蔵国橘樹郡潮田郷(神奈川県横浜市鶴見区潮田町)となる。


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潮田長助(潮田正重)は、大河内城の戦いで蒲生氏郷を撃退したことでも知られており、北畠と織田の和睦に納得行かず籠城したようだ。
このとき、潮田長助の城は伊勢・潮田城(四五百森城)とも呼ばれたようで、本居宣長記念館の裏にあったそうだ。

本居宣長記念館

この潮田長助らの抵抗により、伊勢南方の城は織田勢から守られた。
そのため、実質的に松坂城の最初の築城と言えると思うのだが、だいたいは蒲生氏郷が松坂城を築いたことになっている。

松坂城

1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いのあと、近江・日野城の蒲生氏郷は豊臣秀吉から伊勢国12万3千石を与えられ日置大膳亮がいた伊勢・松ヶ島城に入った。
しかし、伊勢・松ヶ島城の城下町を拡大させるには難しかったため、1588年(天正16年)に四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始。
<注釈> 松ヶ島城には家臣・玉丸直昌が置かれた。

松坂城

1588年、城が完成すると吉祥の木である「松」と秀吉の大坂城「坂」を拝受して「松坂城」と命名した。
四五百森の北峰を本丸として3重5階の天守を配置し、南側は二の丸となり、堀の総延長は2kmに及ぶという堅固な城になったようだ。

松坂城

また、松ヶ島(細頚城)の領民を松坂城の城下に移したほか、旧領の近江商人を呼び寄せると楽市楽座を敷き、伊勢・大湊の豪商である角屋氏にも阪内側を使った水運などで商いをさせたと言う。
こうして松坂にとても立派な石垣づくりの城が完成した訳だが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原攻めにて蒲生 氏郷は会津若松城60万石となって移ったため、服部一忠が松坂城に入城した。

服部一忠

服部一忠(はっとり かずただ)は戦国時代の武将で服部春安、服部忠次、服部采女正とも言う。
父・母は不詳だが織田信長の馬廻衆を務めており、1560年、桶狭間の戦いにて今川義元に一番槍をつける武功をあげたことで知られる。(首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝(毛利新介))
妻は尾張の城下の饅頭屋の娘・お仙と言う説もある。

松坂城

1582年、明智光秀による本能寺の変の際に、弟・服部小藤太が二条御所にて討死している。
その後、豊臣秀吉に仕えると服部一忠(服部小平太)は黄母衣衆に加わった。
<注釈> 黄母衣衆(きぼろしゅう)の意味だが、豊臣秀吉が馬廻から優秀な武者を選抜したもので黄色の母衣指物の着用を許された者の事。

松坂城

前述のとおり1590年、小田原攻めにて武功があり天正19年(1591年)に伊勢・一志郡3万5000石となって松阪城主になった。
ただし、尾張・北伊勢を支配した羽柴秀次を補佐するためいつも秀次の近くにいたため、家来・石黒毛右衛門が松坂城の在番となっている。

松坂城

文禄元年(1592年)、朝鮮攻めの際には漢城まで進軍している。


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1595年7月、豊臣秀次が失脚すると連座となり所領没収となって上杉景勝に預けられたが、高野山で秀次が切腹したあと服部一忠も切腹を命じられた。
次男・服部勝長は、服部一忠と同じく豊臣秀次失脚のため自害した木村重茲の家臣・大崎長行の養子となって前田利家に仕えた。
1614年、大坂の陣にて服部勝長(大崎勝長)は松平忠直隊に加わっており、真田丸の戦いにて討死。

松坂城

服部氏が改易されたあと、近江・日野城の古田重勝(古田兵部少輔重勝)が松坂城主になった。

古田重勝

古田重勝 (ふるた しげかつ)は戦国時代の武将で1560年に美濃・山口城主である古田重則の子として生まれた。
斎藤道三・織田信長、そして豊臣秀吉に仕えて近江・日野城主となっていたが文禄4年(1595年)に豊臣秀吉から伊勢・松坂城3万4000石を与えらた。
このとき、松坂城の改修を行っている。
なお、茶道で知られる古田織部(ふるた おりべ)も同族とされる。


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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従い上杉景勝討伐のため会津に向かっていたがも石田三成挙兵の報を受けると急ぎ松坂城に戻っている。
そして、木食応其より西軍参加を説得されたが籠城し、西軍の鍋島勝茂らが攻撃した安濃津城の富田信高・分部光嘉らに援50を送っている。
これら伊勢方面の西軍を引きとめた功績にて2万石を加増され伊勢・松坂5万5000石になった。
古田重勝の妻は石川光政の娘で、1603年に古田重恒が生まれている。
なお、江戸城の石垣普請を行ったりし、慶長11年(1606年)、古田重勝は江戸にて死去。

松坂城

跡継ぎの古田重垣は4歳と幼少だったため、古田重勝の弟・古田重治(古田大膳亮重治)が後見して松坂藩2代藩主となった。

この弟・古田重治は、関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠の軍勢に加わっており、上田城の戦いでは急ぎ関ヶ原に行くよう徳川秀忠に口上しており、徳川家康から尾張国中島郡700石を与えられている。

元和5年(1619年)、古田氏は石見・浜田城に転封となり、松坂領6万石は和歌山城に入った徳川頼宣紀州藩領となった。
同じく紀州藩領となった田丸城、白子領など合わせて18万石を統括する拠点が松坂城となり、二の丸に陣屋が構えられて幕末に至った。


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なお、蒲生氏郷が築いた三重の天守は、寛永21年(1644年)に台風にて倒壊したと伝わる。

本居宣長旧宅(鈴屋)

本居宣長(もとおり のりなが) は江戸時代中期の国学者・文献学者・言語学者・医師であり、伊勢・松坂の豪商(木綿仲買商)である小津家の出身。
<注釈> 本居家の先祖は北畠氏の家臣であり、本居家・初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えていた。
自宅の鈴屋(すずのや)に門人を集めて講義をしたため鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。

本居宣長旧宅(鈴屋)

現在、本居宣長旧宅(鈴屋)が松坂城・二の丸跡に移築されており、本居宣長旧宅は国特別史跡、本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅、土蔵は国特別史跡、本居宣長奥墓は国史跡となっている。

本居宣長旧宅(鈴屋)

本居宣長旧宅(鈴屋)

なお、見学の場合には本居宣長記念館の敷地内となっているため有料拝観となる。

本居宣長旧宅(鈴屋)

下記は御城番屋敷土蔵(松坂城移築米蔵)であるが、江戸時代後期の建物のようだ。

御城番屋敷土蔵(松坂城移築米

ちょっとした城下町の雰囲気を出しているので散策がお勧め。

御城番屋敷土蔵(松坂城移築米

御城印は豪商のまち「松阪観光交流センター」にある。
100名城のスタンプがある場所は「歴史民俗資料館」および「本居宣長記念館」となる。


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また、松阪は蝦夷地を探検した松浦武四郎の出身地でもある。

松坂城の駐車場

松坂城の駐車場だが城跡の近くにはあまりなかった。
ただし、北側に大きな松阪市駐車場兼松阪市民病院第1駐車場があるので利用できる。
病院の駐車場にもなっているが公園利用も可能。
あとは、本居宣長記念館に10台ほどの無料駐車場があるため、入場がてら利用させて頂いた。
駐車場がある場所を当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしている。

交通アクセス

JR紀勢本線・近鉄山田線の松阪駅から徒歩で約15分。
駐車場情報は上記にて。

春にはソメイヨシノ・山桜など約300本の桜の名所となっている。
そのせいか、城内には新しいトイレが比較的多く設置もされていた。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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