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常陸・神宮寺城のちょこっと解説~南朝の北畠親房が関東で挙兵した最初の地

常陸・神宮寺城

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常陸・神宮寺城

常陸・神宮寺城 (じんぐうじ-じょう) は、茨城県稲敷市神宮寺にある平城。
最初の築城は不明だが、南北朝時代に東条荘を領した東条氏が築いたと伝わる。

常陸・神宮寺城

後醍醐天皇鎌倉幕府を倒す功績を挙げた足利尊氏と対立し、1336年12月、吉野に移って南朝(宮方)を起こし、光明天皇の北朝(武家方)との南北朝時代に入った。

後醍醐天皇から信頼されていた北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)は、南朝方の総司令官となり、1338年9月、義良親王・宗良親王を奉じ白河の結城宗広、伊達行朝・中村経長らと共に搦目城(陸奥・白川城)を目指して海路陸奥に向かう。
しかし、台風だろうか?、暴風雨にあって離散し、同船していた伊達行朝・中村経長らと常陸国へ上陸した。
その北畠親房ら南朝勢を迎え入れたのが、神宮寺城の東条氏であった。

常陸・神宮寺城

東条氏の本拠地は常陸・東条城で、常陸・大掾氏の一族である平忠幹(たいらのただもと)が祖となる。
平安時代末期の1160年、東条五郎左衞門尉忠幹は常陸・東条城(東條太田城)を築城した。
鎌倉時代に多くの分家を輩出しており、大きな勢力を誇った。


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しかし、北朝方の足利尊氏が東条五郷のひとつ高田郷を没収して佐佐木定宗に割譲。
そのため、1337年7月、常陸の南朝勢が東条城にて挙兵するも、東条城は北朝方の烟田時幹によって陥落したようだ。
東条能登守?はすぐ近くに神宮寺城を新築したようで、南朝の北畠親房らと合流して挙兵。

常陸・神宮寺城

滞在中、北畠親房は、義良親王一行の安否を気づかい、消息を尋ねる書状を白河の結城親朝に送っている。

しかし、北朝勢の対応も早く、1338年10月には佐竹義篤、大掾高幹、烟田時幹、鹿島幹寛、宮崎幹顕らが神宮寺城を攻略。
北畠親房らは阿波崎城(あばさきじょう)に移った。
その後、救援にやってきた小田治久の警護にて霞ケ浦を船で渡り常陸・小田城へ入っている。

北畠親房の動向

なお、北畠親房に味方した周辺の領主14名は斬首されたともあり、国道125号沿いに十三塚があるようだ。

東条氏の一族は余力を残していたようで、1341年9月17日、北朝の屋代信経、別府幸実ら北朝勢が東条城を含む南朝方の城を攻略。
東条氏は降伏し、高田神社の神領も没収された。

常陸・神宮寺城

1387年頃、美濃守護土岐氏の庶流である原秀成(原刑部少輔秀成)が関東管領・上杉憲方の被官として江戸崎城に入ると、東条氏は傘下に入った模様だ。

実際に神宮寺城を訪れて少し驚いたのだが平城だと思った。
ただ、自宅に帰ってから資料を見ると舌状の丘陵先端に位置する丘城のようだが、その地勢を活かした防御をぜんぜん感じられなかったのである。
急ごしらえだったようなので仕方ないところだが、単に主郭の周囲を土塁と堀で囲んだだけで、事実上の平城のような構造と感じた。
そのため、大変失礼ながら当記事では「平城」として紹介することにしている。


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要は、まだまだ築城の知識も乏しかった時代にあがいた城跡だと言う事だと、かえって大変貴重な史跡だと言えよう。
しかし、新しく駐車場も整備されてきており、地元の方々の城郭保存への尽力には頭が下がる思いだ。

交通アクセス

駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

このあとは、江戸崎城に向った。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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