和歌山県

和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城

和歌山城

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和歌山城とは

和歌山城(わかやま-じょう)は、和歌山県和歌山市にある梯郭式平山城で、別名は虎伏城(とらふす-じょう)、竹垣城、若山城、虎伏山城とも言います。
標高は48.9m、比高は40mほどの虎伏山(とらふすやま)にあり、紀の川の河口に位置し、国の史跡、日本100名城にも選ばれています。

和歌山の古くからの城と申しますと、紀伊・太田城がありましたので、最初の築城は、豊臣秀吉の弟・羽柴秀長となります。
1585年、豊臣家は紀州征伐を行いましたが、このとき豊臣勢の副将だった羽柴秀長に、紀伊国・和泉国の2ヶ国・64万石が与えられました。


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豊臣秀長は、紀伊湊には吉川平介、日高入山の紀伊・青木城は青木一矩、粉河の猿岡城に藤堂高虎、田辺の芳養泊城(紀伊・泊城)に杉若無心新宮城堀内氏善らを置いて統治しました。
そして、豊臣秀吉が当時には若山(わかやま)と呼ばれていたこの場所に、自ら場所の選定を行い、新城の築城を命じた訳になります。

和歌山城

普請には、築城の名手でもある藤堂高虎が中心となり、補佐として羽田正親、横浜良慶らが工事を行い、約1年で完成しました。
下記の岡口門は国の重要文化財に指定されています。

和歌山城・岡口門

城が完成すると、地名の漢字が和歌山に変更されました。
しかし、豊臣秀長は、大和・郡山城を拠点としていましたので、和歌山城は3万石にて家老・桑山重晴が城代を務めています。

和歌山城

なお、桑山重晴も改修を行ったようで、本丸の手直しなどをした模様です。
1596年、桑山重晴が隠居すると、子の桑山一晴が2万石であとを継いでいます。

和歌山城

下記は普通の城跡でしたら、天守台にも見えますが、和歌山城の表坂にある櫓跡です。
さぞかし立派な櫓があったことでしょう。

和歌山城の櫓台

1600年、関ケ原の戦いの際に、桑山一晴は、徳川家康に従って所領安堵となりましたが、大和・新庄藩への移封となりました。

和歌山城

代わりに、和歌山城に入ったのは、36万6千石となった浅野幸長で、初代の紀州藩主となりました。
浅野幸長も、和歌山城の改修を行いました。

和歌山城

連立式天守が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営しています。

和歌山城

また、大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
そして、1605年頃に、天守も建てられ、子の浅野長晟(あさの-ながあきら)の代には、土塁が石垣に変更されました。

和歌山城

浅野長晟は、大坂の陣では、樫井の戦いにて塙直之らを討ち取っています。
また、紀州での地侍・山伏らによる北山一揆、紀州一揆を鎮圧し紀伊国一揆を平定しました。

和歌山城・一の橋大手門

1619年、福島正則が改易されると、42万石にて広島城に移り、のち同じ浅野一族の浅野長直も、近くの赤穂城に転封となり、赤穂藩はのちの「赤穂浪士」(忠臣蔵)に繋がります。

和歌山城の水堀

そして、和歌山城には、55万5千石で、徳川家康の10男・徳川頼宣が入り、徳川御三家の紀州徳川家が成立しました。
将軍・徳川秀忠は、銀5千貫を紀州藩に支給しており、1621年から和歌山城の大改修と城下町の拡大が図られています。

和歌山城からの展望

しかし、度重なる火災や落雷にて、江戸時代には西の丸御殿、天守閣など主要な建物の多くを焼失しています。

和歌山城

ただし、徳川御三家と言う事で、特別に1850年、大小天守の再建が許されています。
紀州藩からは、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗、14代将軍・徳川家茂を輩出しています。

和歌山城

和歌山城の見どころ

和歌山城の石垣は、築城時期・改修時期がそれぞれあったため、野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギの3種類が見られます。

和歌山城の石垣

なお、明治の廃城令にも関わらず、大天守、小天守、北西隅櫓、西南隅櫓、楠門(櫓門)、北東多門(単層櫓)、北西多門(単層櫓)、西多門(単層櫓)、南多門(単層櫓)、東倉庫、西倉庫などの建造物が残っており、旧国宝に指定されていました。

和歌山城

しかし、1945年(昭和20年)アメリカ軍による和歌山大空襲で焼失したため、現在の連立式層塔型3重3階の天守は、1958年に外観復元されたものになります。
本丸跡の高台は、天守閣を撮影できるポイントにもなっています。

和歌山城の天守

天守内の見学は、有料で営業時間は朝9時〜17時。
売店では、そば・うどんなどの軽食も提供されています。
定休日としては、12月29日~1月3日がお休みになります。

和歌山城

有料拝観は、和歌山城の天守へ上がる手前からとなります。

和歌山城

天守がある内部も立派に復元されていましたので、雰囲気が良いです。

和歌山城

下記から天守の内部を見学します。

和歌山城

また、大手門と一之橋は上記の写真でご紹介したとおり復元されていますが、二の丸と西の丸を結ぶ御橋廊下も復元されているのが、和歌山城の特徴です。

和歌山城の御橋廊下

御橋廊下(おはしろうか)は、橋を渡っている際に、鉄砲や弓の攻撃を防ぐ目的もある廊下橋で、越前・福井城でも復元されています。
ただし、斜行(斜め)の廊下橋は大変珍しく、和歌山城くらいしか記憶にありません。

和歌山城の御橋廊下

内部を歩くこともできます。
見学は無料ですが、時間は朝9時〜17時で、12月29日~1月3日はお休みになります。

和歌山城の御橋廊下

近くには、地下倉庫になっているような遺構もあり、保存されていました。

和歌山城

岡口門の道路より南側にある岡公園には、旧大村家住宅長屋門が移築されているほか、陸奥宗光の銅像もあります。

旧大村家住宅長屋門

西之丸庭園(にしのまるていえん)は、国の名勝にも指定を受けた、見事な日本庭園です。

西之丸庭園

和歌山城内には、和歌山公園動物園もあり、ご家族連れでの散策にも最適です。
そういえば、小諸城土浦城にも、ちょっとした動物園がありますが、和歌山城の方が規模も大きいです。

和歌山公園動物園

下記は伏虎像になりますが、和歌山城の建つ山は、海上から見ると虎が伏せたように見えることから、虎伏山と呼ばれ、城も虎伏竹垣城という別名になっているのを記念して、昭和34年に設置された2代目の虎の像です。

伏虎像

下記は西側にある追廻門となります。

和歌山城・追廻門

和歌山城の南側は、昔の紀伊・岡山城跡となりますが、今は、和歌山県立近代美術館などの博物館が建っています。

紀伊・岡山城跡

その東側に小高い丘があります。
そのうえには、岡山の時鐘堂が現存しています。
紀州藩5代藩主・徳川吉宗が、江戸時代中期の1712年に建造したものです。

岡山の時鐘堂

その徳川吉宗は、江戸幕府の8代将軍に抜擢される訳でして、県庁前の交差点近くに徳川吉宗の銅像もあるのですが、背景がスッキリしておらず、ちょっと残念でした。

徳川吉宗の銅像

和歌山城では、春には桜が咲き誇り、桜の名所・花見もできます。
夏には和歌山城納涼ナイターとして夜間、天守閣にも入れます。

和歌山城の案内図

秋には西之丸庭園で紅葉渓庭園とも呼ばれる色鮮やかな紅葉スポットとしても知られます。


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和歌山城への行き方

和歌山城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、JR紀勢本線の和歌山駅かせ徒歩10分となります。
駐車場は和歌山城の南側にありますが、左折でしか入れません。
下記の写真の交差点が、その有料駐車場入口です。
巨大な石垣の右側がゲートになっています。

和歌山城の駐車場

当方のオリジナル地図にて、駐車場入口をポイントしておきます。
その他、観光バス専用の駐車場もあります。
和歌山城の見学所要時間は、最低60分~120分といったところです。
日本100名城のスタンプの設置場所は、和歌山城天守閣楠門受付付近(チケット売り場)となります.

和歌山城 ボツ写真集
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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