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須賀川城の歴史がよくわかる解説~おんな城主・阿南姫が指揮した籠城戦

須賀川城

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須賀川城とは

須賀川城(すかがわじょう)は福島県須賀川市にある平山城です。
最初の築城は、南北朝時代の1399年に、二階堂行続が築いたとされます。

須賀川城

そもそも、二階堂氏は、藤原南家乙麻呂流・工藤氏の一族となります。
鎌倉初期に、源頼朝に従っていた、工藤行政が、鎌倉・永福寺の近くに屋敷を構え、二階建ての仏堂があった二階堂の建物名称にちなんで、二階堂行政と呼ばれるようになったのが、始まりです。
鎌倉幕府における、政所執事は、ほぼ、二階堂氏が世襲していると言う、文官として実務に優れた一族であり、全国各地に、所領を持つようになりました。
恐らくは、須賀川も古くから二階堂氏の所領であったと推測されますが、統治は、代官を派遣して、二階堂氏じたいは、京や鎌倉にて官僚として活躍していたものと推測されます。
鎌倉時代の須賀川の本拠地は、稲村城(新城館)だとされます。


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鎌倉幕府滅亡後も、二階堂氏は、建武政権・室町幕府にも出仕しており、評定衆も務めました。
そして、3代鎌倉公方・足利満兼が、須賀川の代官として派遣したのが、須賀川城を築城したと言う二階堂行続(二階堂治部大輔)になります。
しかし、鎌倉公方・足利持氏と、室町幕府の足利義教が対立すると、二階堂行続(二階堂行嗣) は、どうも、幕府側に立ったようです。
そのため、1444年、鎌倉から、同じ一族と考えられる二階堂為氏が陸奥に進軍して、二階堂行続を破り、須賀川城主になったようです。(もちろん諸説あり)

須賀川城

二階堂氏の家臣としては、例えば、高久田館(鹿島館)では、岩渕館主(常松館主)・常松義清の4男が、高久田氏の養子となり高久田義兼(高久田四郎義兼)、鹿島八郎、須田大蔵、箭部公為(箭部紀伊守公為、矢部紀伊守公為)の名が見られます。
南高久田館 (鏡石町鏡田字南高久田)など、館は細かく分布しています。
高林館の高林右衛門、江花村館の立石宗光(立石丹後入道宗光)、大里城の相良平次などもいます。

須賀川の場所は、鎌倉街道がとおり、釈迦堂川の「磐瀬の渡し」ひかえる交通の要衝と言えます。
稲村城(新城館)とも、釈迦堂川で繋がっており、支流(ややっこしいが、須賀川と言う小さな川)は、高久田館(陸奥・鹿島館)と、繋がってもいました。


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須賀川城は5万7000石として、やがて戦国時代を迎えますが、二階堂行詮(にかいどう ゆきあきら)のとき、1484年に、会津・黒川城の蘆名盛高が岩瀬郡に攻め寄せ、敗北しています。
二階堂晴行(にかいどう はるゆき)のときには、白河小峰城の白河結城氏や、陸奥・守山城の田村氏と争っており、嫡男・二階堂照行は、伊達晴宗の妹を正室にして、伊達氏との関係を強化しました。
しかし、1559年には、須賀川の今泉城を、田村氏に奪われるなど、少しずつ、勢力を弱めて行った模様です。
1564年から、二階堂盛義(にかいどう もりよし)が7代当主になっていますが、妻は、伊達晴宗の長女・阿南姫(大乗院)を迎えています。

1566年、蘆名盛氏・蘆名盛興によって陸奥・横田城が陥落し、二階堂盛義は、嫡男・二階堂盛隆を、人質として会津に送り、蘆名氏に臣従しました。
ところが、1575年、蘆名氏17代当主・蘆名盛興が、子を残さずに早世すると、人質になっていた二階堂盛隆が、未亡人の彦姫と結婚したうえで、蘆名盛隆となって、蘆名氏の18代当主に就任します。
こうして、1580年、御代田城の戦いで、田村氏に勝利し、勢力を拡大しましたが、二階堂盛義は負傷したようで、1581年に亡くなりました。


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須賀川二階堂氏8代当主には、まだ、12歳くらいの二階堂行親(にかいどう ゆきちか)が就きましたが、翌年、1582年頃?に死去したようで、その後、阿南の方(大乗院)が、女城主として須賀川城主となりました。
二階堂家の家老・須田盛秀が、実質的な城代となって補佐しましたが、1584年には、蘆名氏となっていた蘆名盛隆が、黒川城にて暗殺されます。

その後、二階堂家は、伊達政宗と争う形となり、1588年の郡山合戦でも敗退しました。
1589年6月、摺上原の戦いにて、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼすと、伊達家からは何度も降伏するように説得されたとあります。
しかし、阿南姫は拒否し、高久田義兼、塩田政繁、添田行景、遠藤勝重、須田盛秀、守屋俊重らの家臣らと、佐竹氏・岩城氏の援軍を得て、須賀川城を維持していましたが、家臣の保土原行藤、浜尾宗康らの裏切もあり、1589年10月26日、須賀川城は陥落しました。

阿南姫(おなみひめ) は、実の母・久保姫がいた、信夫郡の杉目城に入りましたが、伊達政宗の保護を嫌い、甥の岩城常隆を頼って、磐城へ移りました。
1590年、その磐城常隆も死去すると、甥・佐竹義宣のもとに身を寄せています。


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須賀川城には、伊達一族の石川昭光が入りましたが、1590年、豊臣秀吉の奥州仕置にて、会津若松城に入った蒲生氏郷の属城となり田丸具直(北畠顕晴)が赴任しました。
蒲生氏も失脚すると春日山城から会津に入った上杉景勝の持ち城となり、家臣・栗田刑部が入封しました。

関ヶ原の戦いのあと、1602年、佐竹家が、秋田転封となると、その移動途中、馴染み深い須賀川に立ち寄った際に、阿南姫は病となり、亡くなっています。享年62。
阿南姫の墓所は須賀川の長禄寺になります。

会津には蒲生氏が復帰しますが、その後、加藤嘉明の時代に、須賀川城は廃城になったようです。
須賀川城は、もちろん、城域は、かなり広かったようです。

須賀川城

下記写真になる長松院の墓地付近が、須賀川城の本丸だった可能性もあります。

須賀川城

日本三大火祭の一つ「松明あかし」(たいまつ-あかし)と言う火祭りが開催されているようですが、須賀川城の戦いにて、命を落とした、多くの人々を弔うために、毎年、行われているようです。

須賀川城の戦いで籠城した武将一覧

執政・須田盛秀

家臣
塩田右近大夫政繁、遠藤内蔵頭、遠藤右近大夫、遠藤弥右衛門、佐久間主殿介、佐久間弥右衛門、内山右馬丞、大原内匠介、飯村六郎左衛門、青木次郎兵衛、須田内蔵丞、大槻与一郎、桐生玄蕃友国、桐生若狭守、黒月与右衛門、青木源四郎、服部伊豆守秀正、吉成監物、吉成玄蕃、日照田大学、田中兵庫、須田左近大夫、遠藤万力正勝、前田川信濃守、須田美濃守盛秀、子息須田源一郎秀広、矢部主膳、遠藤左馬介、円谷与三左衛門、円谷右馬丞、鹿島彦八郎、須田大蔵、江持近江守、須田源蔵、高久田義兼、矢部紀伊守、須田織部、須田彦三郎、飯土用半次郎、鏡沼大膳、浜尾藤一郎、矢部源五郎、小原田内膳、滑川藤十郎、山寺淡路守、鈴木帯刀、子息鈴木八郎、小川和泉守、子息小川彦太郎

二階堂家の旗本衆
浜尾三河守、子息浜尾内蔵助、その弟浜尾孫十郎、浜尾筑後守、子息浜尾内匠、浜尾志摩守、子息浜尾内記允、その弟浜尾弥兵衛、その弟浜尾内匠助、遠藤雅楽頭勝重、子息遠藤彦一郎、遠藤壱岐守、矢部伊豫守、矢部掃部助、子息矢部織部、朝日伊勢守、子息朝日万七郎、大波越後守、大波石見守、子息大波新四郎、薄井源左衛門、薄井弥十郎、内田肥前守、高林右衛門、荒木田清右衛門、大寺宮内大輔、大寺雅楽丞、飯土用七兵衛、泉田将監、その弟泉田左近、横沢内膳、熊沢四郎右衛門、熊沢介左衛門、長沼彦左衛門宗教、忍藤兵衛、その弟忍羽右衛門、岩崎藤十郎、伊土井藤内、白葉因幡守、大賀大学秀教、箭内助右衛門、鈴木太郎右衛門、子息鈴木彦八郎、鈴木六郎右衛門、鈴木太郎左衛門、子息鈴木孫七郎、小川内蔵丞、子息小川弥三郎、今泉伊豆守、石井大学俊春、須田主膳、須田右近、徳善院、光明院(浜尾讃岐守栄俊)、小野寺下記、矢部右馬丞、矢部蔵人丞、須田掃部介、西牧甚四郎、玉名与次右衛門、宮崎内記、片寄新蔵人、早原彦右衛門、根本左馬丞、箭内雅楽介、佐藤主水、太田与三左衛門、太田監物、塚原次郎右衛門、中村助七郎秀治、味戸助兵衛、佐久間十右衛門、藍原太郎左衛門、橋本藤右衛門、志賀杢助、石井彦右衛門、舞木助右衛門、吉田彦十郎、磯部孫右衛門、磯部与十郎、船田次郎左衛門、車田平右衛門、三瓶太郎左衛門、小林弥八郎久忠、阿久津与八郎、下枝掃部、木田新次郎、木田又右衛門、大橋掃部、五市隼人、佐藤助七郎、佐藤雅楽丞、梅宮源七郎、沙茂孫十郎、花川藤左衛門、影山与惣六郎、影山長三郎、影山又一郎、高橋菊阿弥、高橋右衛門、坂地五郎右衛門光方、柳沼与六左衛門正賢、常松義盛(常松縫殿介義盛)など

交通アクセス

JR須賀川駅から歩くと、1.4km、徒歩20分といったところです。
レンタサイクル(貸自転車)ではありませんが、須賀川駅前広場からは、シェアサイクルも利用できますので、とても便利です。
ただし、シェアサイクルですので、事前に、スマホ・アプリで登録などの作業が必要です。


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駐車場は、安いコインパーキングが近くあったので、利用させて頂きました。
有料駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

もちろん、岩瀬山城とセットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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