茨城県

伊佐城 伊達氏発祥の地 伊達朝宗

伊佐城




伊佐城とは

伊佐城(いさじょう)は、茨城県筑西市中館にある平城です。
勤行川の西側の低い台地上にあり、観音寺境内とその周辺にある中館保育園・中館幼稚園の辺りが本丸と二の丸だったようです。
最初の築城は平安時代中期の939年頃で、平将門が挙兵した際に、唐沢山城主・藤原秀郷が築いたと考えられています。
藤原秀郷は平貞盛・藤原為憲らと、平将門の乱を鎮圧しましたが、このとき、3つの館を築いたとされます。





それが、上館・中館・下館で、そのうちの中館(なかだて)が、この常陸・伊佐城であると考えられています。
上館は久下田城で、下館は下館城と言う事になります。

平安時代の1111年、中村実宗が常陸介に任命されると伊佐荘中村に移り住み伊佐城を築いたともされます。

伊佐城

その子である中村季孝は、下館に入って下館侍従と称し、中村家周、中村光隆と続きました。
ただし、いでれも、中村姓を称していますので、下野・中村城を本拠にしていたのかも知れません。
中村光隆の正室は源為義の娘で、伊達朝宗(だて-ともむね)を産んでいます。

伊佐城

伊達朝宗(中村常陸入道念西)は、伊佐城にいたようで、中村一族して源頼朝に従いました。
そして、1189年、奥州合戦にて、伊達朝宗の4人の息子、伊佐為宗、伊達為重(伊達宗村)、中村資綱、伊達為家らは、奥州藤原氏の大将である、大鳥城主・佐藤基治を生け捕りにしました。(石那坂の戦い)
この功績で、伊達家は、陸奥国伊達郡を賜り地頭職を得ます。





そうですね。
のち、伊達政宗を輩出する、伊達家の祖が伊佐城主になっていた伊達朝宗と言う事になります。
妹・大進局は、源頼朝の妾になっており、高野山に入った貞暁(じょうぎょう)を生んでいます。

下記の山門は、下館城からの移築門ともされます。

伊佐城

中舘観音寺の崖側(はじっこ)には、伊達行朝の供養搭がありました。

伊達行朝の供養搭

伊達宮内大輔行朝公塔と刻まれているそうです。

伊達行朝の供養搭

その後、本家になる常陸・伊佐城は、長男・伊佐為宗が継ぎました。
下野・中村城は3男・中村資綱が相続しました。
しかし、源義経と側室・郷御前の子とされる中村朝定を、伊達朝宗は養子に迎えて養育しており、その遺言により、中村朝定が成人すると、下野・中村城主としました。
そのため、中村資綱、中村城を去って陸奥国伊達郡梁川に移り、伊達資綱と改名しています。
伊達宗村が伊達郡・信夫郡に赴き、奥州・伊達氏が続きました。

伊佐城

鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代になると、南朝勢の北畠親房が関東に赴いて支援を呼び掛け、同族の下野・中村城主の中村経長が迎えています。
また、伊佐城の伊佐氏は、奥州の伊達行朝と一緒に北畠顕家の軍勢にいたようです。
そして、伊達行朝(だて-ゆきとも)を伊佐城主に据えて中村経長も籠り、常陸・小田城に籠った北畠親房と、同調しました。





こうして、南朝勢の関東六城(常陸・関城真壁城、常陸・大宝城、常陸・中郡城、下野・西明寺城)として、伊佐城も南朝勢として戦いましたが、北朝の高師冬に攻められて、1343年、伊佐城は落城し、伊達行朝は奥州に戻りました。
この時、伊佐城は廃城になったとされます。

遺構はあまり残されていませんが、観音寺(本堂)の崖側に伊佐城の石碑が建てられています。
あと、下館藩主・石川総管の墓もありました。

石川総管の墓

交通アクセス

伊佐城への交通アクセス・行き方ですが、真岡鉄道の折本駅から徒歩約15分となります。
駐車場はありませんが、観音寺の参拝者用駐車スペースを拝借可能です。
ただし、入口は狭く、曲がるところもわかりにくいうえに、保育園と幼稚園もありますので、充分にご注意願います。
当方のオリジナル地図にて、駐車場の場所をポイントしておきます。

見学所要時間は15分くらいです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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