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臼井城の解説【臼井城の戦い】臼井景胤・白井胤治の奮闘

臼井城

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臼井城とは

臼井城 (うすい-じょう) は、千葉県佐倉市臼井字城之内にある平山城で、標高は26m、比高は18mほどになります。
最初の築城としては、平安時代の1114年に、平常兼の子の・平常康(千葉常康)が、臼井に居を築いて臼井六郎(臼井常康)と称したと伝わります。
千葉一族のなかで最も古い一族が臼井氏です。
臼井常康(うすい-つねやす)は、子の臼井常忠と共に、本家の千葉常胤上総広常に従い、源義朝の挙兵を助け、鎌倉幕府の創設にも貢献しました。
しかし、どこに屋敷があったのかは不明でして、今、見られる臼井城は、南北朝時代の臼井行胤(臼井興胤)のときから、使われるようになったと考えられているようです。

臼井城

臼井常忠が従っていた、上総広常(上総介広常)が、謀反の疑いにて、命を受けた梶原景時によって暗殺されます。
この時、一族である天羽直胤・相馬常清らの所領は没収されていることから、臼井氏も没落したものと考えられています。


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臼井庄は、千葉常胤が支配するところとなり、臼井常忠は従ったようです。

臼井行胤(臼井興胤)

鎌倉時代末期、11代・臼井祐胤が25歳で亡くなると、その遺児・臼井行胤(臼井興胤)は、叔父である下総・志津城志津胤氏に暗殺されそうになります。
このため、下総・岩戸城主の岩戸胤安の助けを受けて、鎌倉・建長寺に逃れました。
そのあと、足利尊氏に味方したことから、総領復帰を遂げますが、この話は、乳母・阿辰の話や、下総・志津城の解説のほうで、詳しく触れておきます。

臼井城

室町時代後期、山内上杉家・扇谷上杉家が推した鎌倉公方(堀越公方)足利政知と、鎌倉公方の足利成氏が関東で争った享徳の乱(きょうとくのらん)では、足利成氏が下総・古河御所に入って古河公方と称しました。
そのため、下総国の守護である千葉家は、室町幕府に味方する者と、古河公方に味方する者で「内紛」となりました。
千葉氏の宗家・千葉胤直は、重臣の円城寺尚任らと足利成氏の討伐に乗り出します。


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しかし、不満を抱いていた、馬加城主で叔父の馬加康胤と、重臣で小弓城主の原胤房が、1455年8月12日、円城寺尚任を殺害します。
また、亥鼻城も攻撃を受けた陥落したため、千葉胤直と、弟・千葉胤賢は下総・志摩城に逃れました。
しかし、8月15日には、千葉胤直も討たれ、更に、下総・小提城へ逃れた千葉胤賢も、9月7日に討たれて、千葉氏宗家は滅亡しました。

臼井城

1476年、山内上杉家の上杉顕定に対し、鉢形城で長尾景春が挙兵した「長尾景春の乱」では、古河公方・足利成氏が仲介して停戦します。
しかし、千葉氏の当主を称していた千葉孝胤は停戦に従わず、長尾景春と結んで、上杉氏に対抗したため、室町幕府が千葉氏当主と認めた千葉自胤(千葉実胤の弟で赤塚城主)を、江戸城太田道灌が支援して、1479年12月10日に「境根原の戦い」(境根原合戦)となりました。

臼井城の戦い

千葉孝胤は、原景弘、円城寺図書之助、臼井俊胤、米野井城の木内胤敬らを従えて、太田道灌らを境根原で迎え撃ちましたが、敗走し、臼井城に籠城しました。
翌年1479年1月、大田道灌は弟の図書助資忠(太田資忠)を、千葉自胤の援軍にして攻撃したため、7ヶ月の籠城の末、臼井城は陥落しました。
しかし、この落城の混乱の中、千葉孝胤(ちば のりたね)は篠塚城へ逃走し、のち本佐倉城を築城しますが、この混乱の中では、太田資忠も53名の家来とともに討死したと伝わり、この太田図書の墓が、臼井城の西側にあります。

太田図書の墓

合戦に勝利し、下総・上総の大半を制圧した千葉自胤(ちば-よりたね)でしたが、逃れて本佐倉城を築いた千葉孝胤(下総・千葉氏)のほうが、千葉の国人からの指示を得ており、千葉宗家を継承することになっています。
いや~、千葉家はとてもややっこしいのですが、千葉家の話をしないと、臼井氏の話もできないので、申し訳ありません。

臼井景胤

馬加康胤と千葉氏宗家を滅亡させた臼井教胤ですが、子がいなかったため、本佐倉城を築いた千葉孝胤の子・千葉持胤が臼井氏の養子に入っています。
この子・臼井景胤(うすい かげたね)のときですが、古河公方・足利高基の弟である足利義明は、兄と対立したことから、独自勢力を目指し、真里谷城の真里谷信清から支援を受けて、1518年に下総・小弓城を攻撃し、原胤隆・原友胤・原虎胤高城胤吉らを破りました。
そして居城とすると「小弓公方」を称しますが、臼井景胤は、千葉氏から離脱して、小弓公方に従うようになりました。
千葉氏の有力者である臼井景胤が、小弓公方に味方したのは、下総に大きな動揺を与え、本佐倉城の千葉勝胤も書状で知らされ驚いています。
こうして、小弓公方の配下として、臼井景胤は下総での最大勢力となり、里見義豊・真里谷恕鑑と共に足利義明を支えました。

臼井城

しかし、1538年、第1次・国府台の戦いにて、北条氏綱に敗れた足利義明が討死したため、臼井景胤は、本家の千葉昌胤に降伏し、生実城主である原胤貞の娘を正室に迎え、恭順を示しています。
以後、臼井景胤の活動が、ほとんど見られない事から、臼井氏の勢力は、原胤貞が掌握していたと考えられます。
1557年、臼井景胤が死去すると、14歳の臼井久胤が家督を継ぎました。
そのため、原胤貞が臼井城に入って後見したようですが、善政を敷いたため、臼井氏の家臣と領民から支持されたと言います。
しかし、1561年、千葉の生実城も攻略した里見氏の重臣・正木信茂が、臼井城も攻撃したため、臼井久胤は、下総・結城城の結城晴朝を頼って逃れ、下館城水谷正村の保護を受けています。
1562年、千葉氏は北条家の支援を受けて、正木氏に奪われた臼井城や小弓城を奪還したともあります。
1564年、里見氏が第2次・国府台の戦いにて、小田原城の北条氏に大敗すると、千葉胤富らの助力にて、生実城と臼井城は、原氏のもとに戻ったともされます。


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上杉謙信の攻撃

1566年、上杉謙信が、常陸・小田城を攻略したあと、下総・小金城を攻めますが、1万5000にて、臼井城も攻撃しています。

上杉勢は、片野城主・太田資正らが先陣で、越後・本庄城主の本庄繁長が第2陣のほか、館林城主・長尾顕長らが布陣したようです。
僅か2000の白井胤治(白井浄三)、原胤成、高城胤長らが迎え撃ちました。(臼井城の戦い)
堀もあとひとつを残すところとなり、落城寸前になりますが、北条氏政の重臣で、富津の上総・大和田城にいた松田康郷の100騎が駆け付け、上杉本陣の前まで切り込む奮戦を見せ、上杉勢を撃破したともあります。
また、白井胤治(白井浄三)は、大手門に敵を引き寄せると、建物を倒して下敷きにしたと言うような軍師としても記録されており「今孔明」とも称される智将です。
<注釈> 千葉氏の一族には「臼井氏」(うすい)と、佐倉の「白井氏」(しろい)と、漢字が似ている一族がいる。

臼井城

そんな折り、室町幕府・足利将軍の足利義昭から、上杉謙信に対して「北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように」と、要請の使者が到着したともされ、田植えの時期も迫った上杉勢は、4月に撤退しました。
その撤退時には、上杉勢の厩橋城・北条長国(北条高広)、越後・新発田城の新発田治長らが殿軍を務めたところ、白井胤治(白井入道浄三)は追撃したとされ、この臼井城の戦いで、上杉勢は5000名以上の死傷者を出し、上杉謙信、最大の敗戦とも言われます。
しかも、敵将が大名クラスではない、武将に敗れたとも言えます。
この白井胤治(しらい たねはる)ですが、出自は不明とされており、その後、豊臣秀吉に仕えたともされます。
白井四郎左衛門入道浄三、白井入道、白井長門守胤定など、色々な名前が見受けられます。

原胤栄

1574年からは、原胤栄(はら-たねひで)が、本拠を臼井城にしておりますが、原一族を掌握するには至りませんでした。
子の原胤義(はら-たねよし)は、千葉氏当主・千葉重胤が、小田原城に人質として出された際に、同じく人質になっており、完全に北条氏に従っています。
そのため、1589年、北条氏政の子である北条直重が、原氏の当主として迎え入れられたようです。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めにて、北条氏が滅亡した際には、徳川勢に属した浅野長政や内藤家長などが押し寄せ、本佐倉城・臼井城・生実城・師戸城は当主不在のまま陥落しました。
徳川家康の重臣・酒井家次が3万石で臼井城に入りますが、1593年に城内にて火災が発生して、建物が焼失したようです。

臼井城

1604年、酒井家次は上野・高崎城に加増移封となると、臼井藩は廃藩となり、臼井城も破却されました。

臼井城

現在、城跡は、臼井城址公園として整備されています。
東に印旛沼が面しており、州崎砦、仲台砦、田久里砦などの郭が築かれていました。

臼井城

京成・臼井駅に近い臼井田宿内砦(宿内公園)も、防御の一角と考えられます。
支城としては、下総・志津城、下総・岩戸城、師戸城、上峠城、小竹城などがあります。

交通アクセス

臼井城への交通アクセス・行き方ですが、京成電鉄本線・京成臼井駅から歩いて約15分となります。
見学所要時間は、くまなく見ると、30分以上といったところです。
古い街中ですのでアプローチの道路が狭く、曲がり角も狭いのですが、中腹に無料の駐車場が整備されていますので、当方のオリジナル関東地図にて印をつけています。
スマホ画面で開いて、目的地設定すれば、カーナビ代わりにもご活用頂けます。

臼井城址公園は、佐倉・国際印旛沼花火大会での鑑賞スポットとしては、穴場と言えます。
すぐ近くには長嶋茂雄の母校・臼井小学校があります。
近くにある師戸城や、阿辰の墓とセットでどうぞ。

阿辰の墓【千葉氏の一族・臼井氏】臼井行胤(臼井興胤)
下総・志津城 志津胤氏と最後に奮戦した妻
師戸城の解説 印旛沼を望む師戸四郎の居城
上総広常の解説~源頼朝に最大勢力として味方した上総介広常
亥鼻城(千葉城)の解説~千葉胤直が最後の千葉氏宗家
下総・飯野城 印旛沼の監視を行う砦か?
馬加城(まくわりじょう) 千葉氏宗家を滅ぼした一族の馬加康胤
謙信一夜城(王子台砦)【上杉勢の臼井城の戦い】
生実城の解説(北小弓城) 原胤清・原胤貞・原胤栄【足利義明の小弓御所】
本佐倉城の解説【続日本100名城】見事な天然の要害で遺構状態も良い
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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