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上総・坂田城のちょこっと解説~木内胤敬や井田胤徳と坂田城の戦い

上総・坂田城

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上総・坂田城

上総・坂田城(さかたじょう)は千葉県山武郡横芝光町坂田にある標高30mの平山城。
別名は市場城。
主郭は無城と呼ばれており、二の丸?は登城と呼ぶのか?

最初の築城は平良兼(平高望の2男)ともされるが、芝光町屋形に伝・平良兼館(上総・平良兼館)があるためなんとも言えない。
なお、平良兼の舘としては、常陸・真壁城近くにも常陸・平良兼館(竜崖城)もあるが、継室が常陸大掾・源護の娘である。
<注釈> 将門記には良兼の館が真壁の羽鳥にあったと記されている。
平安時代中期に平将門との抗争になった中で、妻の実家である真壁を支援するため、真壁にも砦を構えた可能性はあるが、本拠としては上総で間違いないだろう。

と言う事で、上総・坂田城の築城としては総州山室譜伝記によると、弘治元年(1555年)、井田刑部大輔とあるが、以前から使われていたと考える。

木内胤敬

木内胤敬は原氏・鏑木氏と共に「千葉三家老」と呼ばれるた千葉氏の重臣。
1478年、関東管領・上杉定正、太田道灌、千葉自胤らと境根原の戦い(千葉県柏市酒井根)になった際、敗れた千葉孝胤は臼井城に籠城。
このとき、米野井城の木内胤敬も臼井城の籠城に加わる。
木内胤邦(木内胤敬の子)、原二郎などが討死するなど激戦となった中、木内胤敬は太田道灌は弟・太田資忠を討ち取った。
この功績にて古河公方足利成氏から木内胤敬は上総・坂田城を与えられ移り住んだとされる。
更に小弓公方・足利義明の軍勢を打ち破ったことから、里見義成が上総・坂田城を攻撃し、木内胤敬は矢に当たって討死したと言う。
その後、木内胤敬の弟・木内胤衡(大炊介)が家督を継いだが米野井城主とあるので、上総・坂田城は他の武家の手に渡ったようだ。
この頃の飯櫃城の山室氏は、木内氏の重臣として見られる。

そのあとは千葉一族の三谷胤興(三谷大膳亮胤興)の居城として坂田城が登場する。
三谷氏(さんがや)は戦国初期には匝瑳郡(そうさぐん)が所領だったようだが、坂田郷のほうが宗家で匝瑳郡は分家が領しているため、木内氏のあとに坂田城に入った可能性が考えられる。
1505年、千葉昌胤の元服式に、三谷孫四郎・三谷蔵人佐・三谷大膳亮(三谷胤興?)が列席している。

しかし、三谷胤興、三谷胤煕、三谷胤良の三谷3兄弟に内紛が発生し、本佐倉城の千葉勝胤が仲裁したともある。
1555年、大台城の井田友胤(飯櫃城主・山室常隆の客将)は、飯櫃城の山室氏や和田氏の支援を受けて坂田城・三谷氏の内訌に介入した。
井田友胤(井田刑部大輔友胤)は金光寺に参詣した三谷信慈入道(三谷大膳亮信慈)を奇襲し、宝馬野の戦いで三谷大膳亮胤興を討ち取って坂田郷を乗っ取ったとある。

敗れた三谷の一族で、上総・新村城の三谷胤重(三谷蔵人佐胤重)が、1556年に香取二ノ原で挙兵している。
井田友胤の弟・井田氏胤が討死したが、井田胤徳が反撃して勝利した。
この合戦のあと、井田友胤は剃髪入道し、嫡男・井田胤徳が家督を継いでいる。

井田胤徳

井田胤徳(いだ-たねのり)は戦国時代の武将で井田友胤の嫡男。(生年不詳)
母は飯櫃城主・山室常隆の娘とみられる。
父・井田友胤は1548年に上総・大台城を築いて移住。
そして、三谷胤興より上総・坂田城を奪うと父は千葉介親胤から「美濃守」の受領名を受けている。
1556年に井田胤徳が家督を継いだ。
3万5000石くらいの領地だったようだ。

もともと井田氏は筑紫の住人だったようで浪人すると小田原城北条氏政に仕官し、2~3年で上総国武射郡小池村の上総・小池城主になったととある。
ただし、文安年間(1444年~1448年)には山辺庄小池郷を領していたともされる。
1505年に千葉昌胤が千葉妙見社にて元服した際に井田美濃守胤俊の名があるため、以前から井田氏だったのか?、その井田氏の養子となって名跡を継いだといったところか?

いずれにせよ、千葉氏から信頼を得ていたが、千葉氏を越えて北条氏政の命令を直接受けると言う勢力として認められていたようだ。
井田氏は遠山政景を通じて小田原城の北条氏と連絡取り合っており、1564年、第2次・国府台合戦では北条氏康側に味方して出陣している。
1568年、井田胤徳は北条氏に鷹を贈っている。
その頃、助崎城の大須賀信濃守らと岩槻城の城代も務めていたようで、1569年11月、北条氏政から蜜柑と酒を贈られた。

なお、何かの際に参じなかったようで「北条氏政が非常に立腹しており、連絡役の自分(遠山政景)も迷惑している。」と言う書状も見受けられる。

また、上総・大台城には井田胤徳の嫡男・井田輝胤(井田権左衛門輝胤)が入ったようだ。
井田友胤の弟としては、討死した井田氏胤、井田志摩守、姉妹に千方民部の妻がいる。
子としては、和田胤信の娘を妻とした前述の嫡男・井田輝胤のほか、井田治右衛門尉(井田胤信)の名が見られる。
<注釈> 和田胤信は客将で山中南城主、井田氏の軍代も務め、京の情勢にも明るかった模様で北条家も頼っている。子と考えられる和田左衛門尉胤茂は山中北城主。
井田氏の譜代家臣としては掘内右衛門尉、村山伊賀守、小堤城の神保長門守、津辺城の白升和泉守、真行寺助九郎、伊藤八郎左衛門、船越城の寺田左京亮、於幾城の桜井六郎右衛門が見られる。
なお、井田氏の被官・三谷衆として、上総・新村城の三谷蔵人佐胤重、三谷民部少輔、三谷右馬助、三谷源次左衛門、三谷主税助、三谷刑部左衛門尉がいるようだ。
その他、芝崎城の椎名顕時(椎名勢兵衛顕時)など椎名衆も従っていたようだ。

千葉邦胤(ちば-くにたね) が正室に北条氏政の娘(北条氏直の養女)を迎える際には、千葉氏側の使者に井田胤徳の名が見られる。

1584年~1585年頃は、佐竹義重・多賀谷重経の南下から牛久城の岡見治広を助けるため、下総・小金城の高城胤則、府川城の豊嶋貞継らと井田胤徳(井田因幡守)も牛久城の守将となって防衛に成功している。

1588年12月、水戸城の江戸重通と、常陸・府中城大掾清幹が戦うと大掾清幹は北条氏に援軍を求めた。
このとき、足高城の岡見宗治と、下妻城の多賀谷重経も争ったため、北条氏は牛久城の岡見宗治のもとに、高城衆、豊嶋衆のほか井田胤徳も援軍として向かわしている。
そして、牛久城では多賀谷勢を撃退している。

このように、自分の所領とは関係ないところの防衛や合戦に駆り出されており、しかも九十九里からは遠いところに行っている。
毎年のように兵役に繰り出される井田氏の苦悩もわかるような気がしてきた。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、井田胤徳は300騎を小田原城に入れるよう北条氏政から命じられた。
<注釈> 軍役300名のうち、225名を動員してそのうち200名を小田原に入れるよう命じられたが、井田胤徳は70名と小田原に入り、130名は坂田城に残し、飛脚を発したら坂田城から小田原に急行する体制を取ったと伝わる。
そして、北条家宿老・杉田為鑑の指揮下に入り、下総・小金城の高城胤則・高城源次郎らと湯本口を守ったようだ。
<注釈> 北条氏照の家臣・井田是政(井田摂津守是政)も湯本口にいたようでややっこしい。

1592年、下総・小金城から佐倉城に武田信吉(徳川家康の5男)が10万石となって移ると井田胤徳は200石で召し抱えられ、佐倉領の代官となった。
武田信吉(松平信吉)が亡くなり弟・徳川頼房が水戸藩主になると家臣の多くは水戸家に仕えており、井田氏も水戸城下に移って子孫は水戸藩士として続いた。

成東城の成東将胤は小田原城で討死して子孫は浪人するなどしており、仕官できなかった上総の武将も多い中、井田氏はまだよかったようだ。
幕末の天狗党の乱では、、正武隊り隊長として井田因幡(井田平三郎)の名が見られる。


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細長い半島のような丘の先端にある上総・坂田城であるが、なかなか興味深い。
坂田城の戦いも何回もあったようだし、城跡の遺構もよく残っているようだ。
しかし、千葉一族はほんとたくさんの支族があり、千葉県には城跡が1000箇所以上あるようなのでとても周り切れない。
本当であれば少し散策したかったが、この日は鹿島城まで行くため時間がなく遠景撮影のみに留めた。

交通アクセス

横芝駅前にある情報交流館ヨリドコロにて、貸自転車(レンタサイクル)あり。
駐車場は、ふれあい坂田池公園駐車場(無料200台)利用といったところか?
駐車場の場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

このあとは旭市の東漸寺に向った。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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