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馬加城(まくわりじょう) 千葉氏宗家を滅ぼした一族の馬加康胤

馬加城(まくわりじょう)

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馬加城とは

馬加城(まくわりじょう)は、千葉県千葉市花見川区幕張町にある、平山城です。
武石館のある台地の西端に築かれているようですが、往時は、かなり規模もあった城になっていたと考えられます。
近くを流れる、浜田川の上流には実籾城、下流には宮ノ台城と大須加山砦があります。
最初の築城は、猪鼻城の千葉常胤の4男・大須賀胤信が、大須賀庄・本郷に入り、平安時代末期の治承四年(1180年)に築城したとれさます。
もちろん、当時、麓に館があり、山のうえは、詰の城であったと推測されます。
大須賀胤信(おおすが たねのぶ)は、父・千葉常胤と共に、源頼朝に協力し、源範頼の軍勢と共に一ノ谷の戦いにも参陣しました。
奥州藤原氏を攻撃した奥州合戦にて、大須賀胤信は東海道方面の大将を務めています。


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室町時代の後期には千葉満胤の長庶子・馬加康胤が城主でした。
馬加康胤(まくわり-やすたね)は、千葉氏の第15代当主・千葉兼胤(ちば-かねたね)の弟と言う立場で、幼い頃は常陸大掾家の養子になったようです。
しかし、離縁すると、千葉に帰って馬加村に屋敷を構えました。
その兄が1430年に死去すると、第16代・千葉胤直(ちば-たねなお)に仕えます。

1454年、鎌倉公方足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺して関東は「享徳の乱」となり、千葉氏も2分して内紛となります。
このとき、千葉胤宣と、重臣・円城寺尚任は上杉氏に味方し、馬加康胤と原胤房は足利成氏についたため対立が激化し、1455年、原胤房は千葉城を襲いました。
出家していた馬加康胤は、原氏に合流して、千田庄の下総・志摩城、多古城にて籠城した千葉胤直や円城寺尚任、そして援軍の大掾頼幹を攻撃して、千葉氏の宗家を滅亡させました。
しかし、室町幕府の将軍・足利義政は、千葉氏の一族でもある篠脇城主・東常縁を下総に派遣します。
東常縁は、国分氏、大須賀氏、相馬氏など千葉氏一族を率いて、馬加康胤の馬加城を攻撃したため、馬加康胤、馬加胤持の親子は小弓城へ逃れました。
その後、馬加康胤は、上総八幡(千葉県市原市八幡町)の村田川付近(村田川の戦い)で、東常縁に討たれたともされます。
千葉県市原市八幡に、馬加康胤・馬加胤持の墓 (胴塚) があります。
浜田川の西側に、馬加康胤の首塚がありますが、晒された首を、家臣が奪い、この堂がある大須加山砦跡に埋めたという伝承があります。

印旛郡印東庄岩橋村に住んだ馬加康胤の庶子とされる、岩橋輔胤が、本佐倉城を築くと、千葉輔胤と称し、千葉氏の第21代当主となりました。

そのあとも、馬加城は使われたようで、戦国時代の天文年間(1532年~1555年)には、下総千葉氏の第27代当主・千葉昌胤の次男である千葉胤富がいた史料があるようです。


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馬加城への交通アクセス

交通アクセスですが、JR幕張駅・京成電鉄の京成幕張駅から徒歩15分です。
現在、住友幕張ハウスと言う大きなマンションが建っているなど、開発にて、城跡の遺構は失われているようで、立入りも困難と、今では難攻不落な城跡と言えます。
馬加は「まくわり」と読みますので、幕張メッセなどがある、この地元「幕張」(まくはり) の語源と言えるでしょう。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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