茨城県

下館城 水谷正村と水谷勝俊 不敗伝説を作った水谷氏

下館城

下館城(しもだてじょう)は、茨城県筑西市甲にある平城で、別名は螺城、法螺貝城、常陸・下館とも言います。
最初の築城は平安時代中期の939年頃で、平将門が挙兵した際に、唐沢山城主・藤原秀郷が築いたとされます。
藤原秀郷は平貞盛・藤原為憲らと、平将門の乱を鎮圧しましたが、このとき、3つの館を築いたと言われています。
それが、上館・中館・下館で、そのうちの下館(しもだて)が、常陸・下館城であると考えられています。
中館が伊佐城で、上館は久下田城と推定されているようです。





その藤原北家秀郷流である近藤氏の氏族の水谷氏(みずのやし)が、結城城主・結城氏朝の重臣である水谷勝氏(水谷伊勢守勝氏)と言う事です。

1440年、鎌倉公方・足利持氏の遺児である春王丸や安王丸らが挙兵して、小栗城を占拠したあと、結城氏朝を頼ります。

結城氏朝・結城持朝らは、足利春王丸や足利安王丸を迎えましたが、結城氏の重臣らは猛反対し、髻を落として出家し、結城城を去りました。
しかし、水谷勝氏(水谷伊勢守勝氏)だけは「乱を見て捨てるは弓矢の道ならず、力無くとも討ち死にするより道はあるまい」として、結城氏に従い結城城にて1年の籠城に耐えたと言います。
いわゆる「結城合戦」です。
室町幕府は、上杉清方・今川範忠・小笠原政康などを派遣し結城城を包囲しました。
そして、1441年4月、結城氏朝と結城持朝は討死し、結城城は陥落していますが、水谷勝氏も運命を共にしました。





その後、結城直光のころ、1478年に、水谷勝氏(みずのや-かつうじ)が下館領を与えられており、下館城として改修したようです。
これは、常陸・小田城の小田政治が結城領に侵攻すると、下館を占領したようですが、結城勢は下館が要害だったため攻撃できなかったそうです。
この頃、水谷勝氏は、 主君・結城氏広と喧嘩別れしたように見せかけて、 筑波山の麓に移住していたようで、小田政治は味方に引き入れていました。
その水谷勝氏が、小田勢の手に落ちていた下館城を、奪い返したことに成功したたろ、結城氏広は下館城を水谷勝氏に褒美として与えたともあります。

下館城

こうして、水谷勝氏は結城家中で実力をつけ、独立する動きも見せたため、結城氏は一枚岩になれませんでした。
そしふ、1481年に、結城政朝が僅か3歳で家督を継ぐと、結城氏の実権は重臣で下妻城の多賀谷和泉守(氏名不詳)に握られています。

1514年、結城政朝が古河公方・足利政氏に味方すると、竹林の戦いに水谷勝氏も参じて戦功をあげました。
その後、結城家が宇都宮氏と険悪になり、結城政朝が結城氏の旧領であった中村十二郷を奪還すると、先陣で中村玄角を討ち取る活躍をした水谷治持が中村六郷(下野・中村城)を与えられています。(諸説あり)

その後、結城政勝の娘・小藤姫を正室にした水谷正村が登場します。

水谷正村(みずのや-まさむら)は、1524年に水谷治持の嫡男として生まれたとありますが、水谷勝吉か水谷正吉の実子で、水の治持の養子になったともされます。
いずれにせよ、勇猛果敢な武将となり「結城四天王」の一人として称されました。
結城四天王は、多賀谷家重・山川氏重・水谷氏・岩上氏の4氏とされ「結城の四老」とも言います。





1539年、武蔵・吉見城主の大串武成・大串重義の父子が、古河公方・足利晴氏の側近である野渡光時を討ちます。
このとき、足利晴氏は結城政勝に援軍を要請したため、猛将・水谷治持と多賀谷家重を派遣しました。
水野正村はこの初陣にて、大串勢の侍大将・田谷右兵衛尉など、48首をとったと言い、合戦後、水野治持は隠居して、正式に家督を譲ったと言う事になります。

しかし、この大串合戦で、多賀谷家重は大串武成の首級を取ったと、今回の手柄を主張したため、水谷正村は喧嘩を仕掛けます。
多賀谷氏の所領は約6万石で、対する水谷氏は13000石だったため、下館城下包囲されて、激しい戦闘になったとされます。
ただちに、主君・結城政勝は、争いを止めさせましたが、水谷正村は叱られたそうで、その後は、宇都宮氏に目を向けるようになります。

1544年、水谷正村は、宇都宮領との境にある下野・中村城を攻撃しました。
この時、水谷勢は敗れましたが、その敗戦を逆手にとり、その日の晩、戦勝に酔いしれている中村城を急襲すると、あっさりと中村城を手に入れました。

1545年、水谷正村(水谷政村)は、宇都宮氏の侵攻に備えて、下館城の北に支城として久下田城を整備しました。
これは、下野・中村城が焼失していたため、久下田城を急ぎ改修したと言えるようです。

宇都宮氏の重臣・芳賀高定が、八木岡貞家らと久下田城を攻撃しましたが、水谷正村は、挟み撃ち戦術にして撃退しています。





父・水谷勝吉の17回忌を法要の日、復讐に燃える八木岡貞家は、200騎を率いて奇襲攻撃を仕掛けます。
しかし、水谷正村は、事前に察知していたようで、伏兵を配置しており、自らは寺の本堂から馬にて八木岡勢に突進し、八木岡貞家を討ち取ると、八木岡城も落としました。

そのため、宇都宮尚綱は憤慨し、重臣の武田信隆(武田治部太夫信隆)を大将にし、中村時長・八木岡勢ら3000騎という大軍にて、久下田城を攻撃させました。
水谷正村は籠城して、結城政勝に救援を求めました、石島ケ原の合戦(久下田城の戦い)となります。
水谷勢は、武田信隆を討ち取り、大勝利を収めています。

そして、久下田城の城下町を整備すると、真岡木綿の船運などで、下館と同じくらい栄えたと言います。

1566年、水谷正村は、弟・水野勝俊と共に結城晴朝に従い、上杉謙信と戦っています。

1569年、弟・水野勝俊に家督を譲って出家する蟠龍斎(はんりゅうさい)号しました。
そして、久下田城に移って隠居生活を送っていますが、引き続き、弟・水野勝俊に協力したようです。
特に、織田信長豊臣秀吉徳川家康と言った実力者には、貢物を贈るなどして、誼を通じました。

下館城

水谷勝俊(みずのや-かつとし)は、1542年に水谷治持の次男として生まれました。
1585年、兄・水野正村と一緒に下野・田野城を攻撃すると、敗戦を悟って一騎打ちを仕掛けた羽石時政(羽石盛長)を、兄・蟠龍斎が槍で討ち取り、更に勢力を拡大しています。

1586年、佐竹義重に従っていた太田資正(太田三楽斎)が、長倉遠江守、真壁安芸守ら3000にて、水谷領に侵攻し、結城勢の片見伊賀守が自刃して果てるなどしました。
しかし、双方決着がつかず、最終的に、佐竹氏、結城氏から仲介にて、停戦となっています。





また、小田氏治との海老島の戦いでも水谷氏は戦功がありました。
これまで、引き分けはあるものの、水谷正村(水谷政村)は一度も負け知らずでしたが、伸びてきた豊臣秀吉・徳川家康と言った大きな勢力に敵対することなく、素直に従います。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、結城晴朝の与力大名を命じられましたが、同時に、大名として名実ともに4万7000石の安堵を認められました。
なお、水谷正村の娘が結城氏17代当主・結城晴朝の正室になっていました。
しかし、男子に恵まれなかったようで、のち、黒田官兵衛の仲介にて、徳川家康の子である結城秀康が、結城晴朝の養女になった江戸重通の娘・鶴子と結婚して、結城家に婿入りします。
この話は、水谷正村と徳川家康は、かねてより親交があった事から、水谷勝俊が交渉してまとめました。

1592年からの朝鮮攻めでは、肥前・名護屋城に駐留しています。





なお、水谷勝俊の正室である堀田正吉の娘が、のち、備中・松山藩の初代藩主になる、水谷勝隆を1597年に産んでいます。
この堀田正吉の娘の母は、堀田正吉の正室である稲葉正成の娘・まんですので、春日局の義娘と言う事になります。

1600年、関ヶ原の戦いでは、水谷治持の娘が産んだ子である皆川城主・皆川広照や、大田原晴清らと共に下野・大田原城を守備して、上杉景勝佐竹義宣に備えました。
この功績によって所領は安堵となり、結城秀康が越前・北ノ庄城に転封となると、水谷家は独立大名となりました。

下館城

なお、甥の水谷正慶が結城秀康に従って越前に赴いています。

こうして下館藩が成立し、第2代藩主・水谷勝隆(みずのや-かつたか)は、1639年に備中・成羽藩5万石、1642年には備中・松山藩5万石となって移封しました。
そして、水野勝宗の代に、備中・松山城は天守など3年にわたる大修築が行われ、現在の姿になったと言う事です。

なお、下館城には1639年、松平頼重が5万石で入封しました。
その後、増山正弥、井上正岑、黒田直邦、石川総茂と変わると、石川氏9代・石川総管にて明治維新を迎えています。

伊佐城跡の観音寺・山門は、下館城の移築門ともされます。

下館城の移築門

下館城への交通アクセス・行き方ですが、JR水戸線・関東鉄道常総線・真岡鉄道の下館駅から歩いて10分ほどです。
ほとんど遺構は失われており、駐車場はありません。





下館城は、五行川の西岸の平地にありました。
下館小学校付近が二の丸です。
その北にある八幡神社付近が本丸で、八幡神社に案内板と石碑が建てられています。

下記は近くにある水谷氏の菩提寺・定林寺です。

定林寺

下記は水谷勝俊が、1567年に寄進した銅鐘になります。

水谷勝俊寄進の銅鐘

菩提寺には予定外の訪問だったため、わからなかったのですが、水谷家の墓所もあるようです。
下館城など場所は、当方のオリジナル地図関東にてポイントしております。

久下田城(常陸・上館) 蟠龍斎が築いた常陸と下野の国境にある城
伊佐城 伊達氏発祥の地 伊達朝宗
備中松山城 登城方法 雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿
日本全国のお城地図(オリジナルマップ)

 

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攻略難易度
中級者向け
旧国名
常陸
著者コメント
駐車場が無いのがネックです。




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