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佐倉城とは
佐倉城(さくら-じょう)は、千葉県佐倉市城内町にある標高35mの連郭式平山城で比高は28mになり、日本100名城に選ばれています。
別名は下総・鹿島城、鹿島山城とも言いますが、これは鹿島幹胤が最初に築城を始めたためです。
鹿島幹胤は本佐倉城・千葉孝胤(千葉介孝胤)の次男とされ、常陸大掾家の鹿島左衛門尉の養子になったともされ、命を受けて鹿島山城の築城を開始しました。
しかし、1557年、下総千葉氏の26代・千葉親胤が、小田原城主・北条氏康に敗れて捕らわれると暗殺され、佐倉城の工事が中止されました。
暗殺したのは同じ千葉一族の原親幹ともされます。
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その後しばらくして、佐倉城の工事は再開されたようですが、第29代・千葉邦胤が1585年にに就寝中に短刀で刺されて6日後死去するなどし、またもや中断するなどし未完成のまま戦国時代の終わりを迎えました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、徳川家康が江戸城に入ると、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、徳川家康が江戸城に入ると、秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿)が産んだ徳川家康の5男・松平信吉(武田信吉)が、下総・小金城に3万石で入ります。
その松平信吉(武田信吉)が1592年に、3万石で本佐倉城に入りましたが、佐倉城は放置されていたようです。
そのあとには、松平忠輝が5万石にて佐倉藩主になっていますが、1606年には小笠原吉次と目まぐるしく変わっています。
のち、徳川秀忠の側近で、小見川城1万石になっていた土井利勝が、1610年、佐倉藩3万2000石に加増移封となり、防衛上の理由から下総・佐倉城の工事が再開されて、1617年にようやく完成しました。
一説には、徳川家康が自ら縄張り(設計)したとも伝わります。
明治維新を迎えるまで、佐倉藩の藩庁は、この佐倉城に置かれ、城下町も形成されました。
城の名称も、鹿島から佐倉に改められ、古来の佐倉城は、本佐倉城と呼ばれるようになりました。
外堀の一部には、昔は広大だった印旛沼を用いて、三重櫓(御三階櫓)を天守代用としたようです。
ただし、石垣は使われず、土の城になっていました。
現在は佐倉城址公園公園として整備され多くの市民が散歩していますが、とても広い、本丸・二ノ丸・三ノ丸などの曲輪が良く残っています。
特に国立歴史民俗博物館に隣接した、馬出し空堀は、保存の状態が良いです。
なお、江戸城を守る重要拠点のひとつでもあることから、幕府の老中・大老と言う要職につくと、佐倉藩主になると言う傾向があり、9家20代も頻繁に城主が変わりました。
幕末に老中・阿部正弘のあと幕府の政治に大きくかかわり「天保の改革」を行った堀田正睦が11万石で佐倉藩主であったことから、堀田正睦の銅像もありました。
堀田正睦と、日米修好通商条約を締結したアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスの銅像もありました。
佐倉城の見学所要時間は、城址だけでしたら、30分~60分といったところです。
城内にある国立歴史民俗博物館(歴博)も見学する場合には、1日がかりを覚悟したほうが良いです。
佐倉城への交通アクセス
日本100名城スタンプは、佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)に設置されており24時間押せますし、パンフレットもあります。
また、脇には無料駐車場も完備されていますが、サクラの名所でもあるため、桜と菖蒲のシーズン中などは駐車場が満車になり、道路も渋滞するようです。
ただ、駐車場は、比較的、あちこちにあります。
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交通アクセス・行き方ですが、京成佐倉駅からですと徒歩30分になります。
JR佐倉駅からは徒歩25分です。
当方のオリジナル関東地図もありますので、スマホからでもご参照頂けますと幸いです。
日本100名城のスタンプが設置されている場所は、佐倉城址公園センターの建物外にあり、24時間可能です。
近くでは、佐倉城の武家屋敷もいくつか公開されています。
また、佐倉城内の国立歴史民俗博物館も非常に見ごたえありますので、お時間がある方はセットでどうぞ。
・本佐倉城の解説【続日本100名城】見事な天然の要害で遺構状態も良い
・臼井城の解説【臼井城の戦い】臼井景胤・白井胤治の奮闘
・土井利勝とは 大老にまで出世した徳川家康の隠し子?
・堀田正睦の解説 佐倉藩主で幕末にハリスなどと交渉した幕府老中
・タウンゼント・ハリス 下田領事館のアメリカ公使・初代駐日公使
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