東京都

赤塚城 千葉胤賢など千葉一族の城跡

赤塚城

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赤塚城

赤塚城(あかつかじょう)は、標高25m、比高10mの平山城で東京都板橋区赤塚にあります。
しかし、段丘の上に築かれており、この付近ではいかにも砦に相応しい場所です。

赤塚城を築城したのは、千葉からやってきた千葉自胤(ちば-よりたね)とされます。
当時、千葉城主の千葉胤賢(第15代当主)が、鎌倉公方足利成氏と、関東管領上杉憲忠・上杉房顕の内紛に巻き込まれ、千葉胤賢は鎌倉公方・足利成氏の討伐に参加します。

1455年、これに反対していた重臣・原胤房に千葉城を急襲され、千葉胤賢は兄・千葉胤直と甥・千葉胤宣と共に志摩城、多古町城に逃れました。
しかし、1455年8月12日、原胤房と叔父・馬加康胤によって多古城が陥落し、千葉胤宣は城近くの阿弥陀堂にて自刃。
志摩城の千葉胤直も8月15日に東禅寺へと撤退して自刃してしまい、千葉胤賢は2人の子である千葉実胤と千葉自胤を連れて脱出しました。


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しかし、逃れた小堤城も9月7日に陥落して、千葉胤賢も自刃してしまいます。
そのため、2人の息子・千葉実胤と千葉自胤は市河城(市川市)に逃れますが、簗田持助らに敗れ、扇谷上杉氏を頼って武蔵まで落ち伸びます。

この時、千葉実胤と千葉自胤を保護したのが太田道灌です。
太田道灌は千葉実胤を武蔵石浜城(台東区橋場)に入れ、赤塚城を築城すると千葉自胤を城主としました。
ちなみに、赤塚城の支城となる志村城には、千葉自胤の一族である千葉隠岐守信胤が入っています。


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ただし、逃れてきた2人の所領は乏しく軍事力も低下。
兄・千葉実胤が隠棲すると、千葉自胤が武蔵千葉氏の第2代当主となりますが、小規模な勢力しか持たない国人として赤塚城付近に定着しました。

1524年に北条氏綱が赤塚城も支配下とすると、武蔵千葉氏は北条家家臣に加わっています。

1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、武蔵千葉家の家臣である松戸越前守が赤塚城を守備しましたが、徳川家康が江戸城に入ると赤塚城も廃城となった模様です。

赤塚城のため池

かつて赤塚城の北側は徳丸ヶ原と言う湿地帯であり、現在、釣りができる「ため池」(溜池公園)は赤塚城の内堀と考えられます。

赤塚城址の石碑

小高い丘である本丸跡には「赤塚城址」の石碑もあります。

赤塚城

本丸は結構広いですね。

赤塚城

城址は東京都立赤塚公園の一部として整備されているため、本丸跡を示す石碑の他には、空壕などの遺構が、わずかに残る程度になっています。

赤塚城の薬師堂

しかし、昭和40年頃までは、手つかずで赤塚城の遺構も残っていたとされますので、実に残念ですね。

赤塚城の二の丸

隣の赤塚山乗蓮寺(東京大仏)の場所が二の丸跡であり、板橋区立赤塚植物園があります。

赤塚城の郭

上記の丘も見張り台や郭として使用されていたものと推測致します。


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交通アクセス

赤塚城は都営地下鉄・三田線の終点・西高島平駅から徒歩約15分です。
車の場合には、板橋区立美術館の駐車場が利用できると思います。

下記地図のポイント地点は、赤塚城址の石碑がある場所を指しております。

以上、志村城と赤塚城を巡って参りましたが、志村城の熊野神社でのお賽銭額が少額だったのが悪かったのか?、フリーパスは無くすし、赤塚城から帰りはバスに乗ろうと計画していたのですが、バスの時間も悪くて、結局、地下鉄成増駅まで約25分も歩くと言う不運が続きました。
その後も、3分差で特急を逃すなど、運が悪い事が続きましたが、ケガ無く帰って参りましたので、良しとしています。
志村城の熊野神社をお参りの際には、どうぞお賽銭は盛大にお願い申し上げます。(^-^)

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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