真壁城とは
真壁城(まかべ-じょう)は、茨城県桜川市真壁町古城にある連郭式の平城で、国の史跡に指定されています。
筑波山に至る八溝山地の南端の山すそに築かれており、桜川に面した平地よりは、少し微高地になっているところに真壁城が築かれていました。
四重の堀や土塁が良好な状態で残されており、本丸と二の丸は一段高く、二の丸の隅には櫓台とも思える土塁もあります。
スポンサーリンク
最初の築城は、古墳時代かも知れません。
日本書紀にもある第10代天皇・崇神天皇の時代に、ヤマト王権が新治国を統治するために派遣したのが、新治国造の祖・比奈良珠命となります。
その後、13代天皇・成務天皇のときに、美都呂岐命の子の比奈羅布命が新治国造になっています。
成務天皇の兄は、日本武尊でして、ヤマト王権は、東征し、征服すると、原住民(蝦夷)から税を取るようになったと言えます。
もしかしたら、これら、新治国造の拠点が真壁城の付近だった可能性もあります。
百家系図、諸系譜などの系図によると、古墳時代・13代成務天皇のとき、建許呂命(たけころのみこと)/ 天津多祁許呂命 (あまつたけころのみこと)がいます。
その子・筑波使主命(筑波国造)が、筑波国造・額田部連・倭田中直の祖となっています。
「~べ」と言う「部」(べ)と発音する土地は、かなり古い時代から存在した(栄えていた)と考えられるのですが、真壁荘の歴史も、とても古く、もともと真髪部と書きます。
真髪部の前は、白髪部(しらがべ)と呼ばれていました。
白髪部は、ヤマト王権の遺跡を残して、後世に名を伝えるため、古墳時代の第22代天皇・清寧天皇(白髪大倭根子)(しらがのおおやまとねこ)の名代として派遣された、もしくは任命されたのが、白髪部さんと言う事になります。
常陸国真壁郡は、物部氏の租と同じ大売布命(おほめふの命)の末柄で、常陸国久慈郡に入った久自国造(くじのくにのみやつこ)の一族が白髪部に入り開発したようです。
隣の筑波郡には、同族の大部造(おおとものみやつこ)が入っていますが、住まいは水守郷(水守城)だったようです。
ただし、筑波は、筑波国造(つくばのくにのみやつこ) ともされることから、大部造と同一人物(同じ一族)だったのかも?知れないところです。
スポンサーリンク
飛鳥時代、645年の大化の改新や、672年の壬申の乱などを経て、701年、大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されると、倭国から日本にと、国名も定められたわけですが、日本全国には、貴族から国司を6年(のち4年)の任期で配するようになります。
当初、国司(常陸の場合常陸守)が任地に下向することはほとんどなく、実質的な実務は常陸介が、その下には常陸大掾が、常陸国に入って担当するようになり、領地の所有者も変わって行きました。
続日本紀(797年完成)によると、785年5月、光仁天皇の諱(いみな)である白壁を避けて、真髪部(真壁)と名称が改名されたと記載されています。
そして、筑波(つくば)では北条(多気)に、平沢官衙と言う筑波郡の郡衙(役所)があるように、税を徴収するため、新治郡の郡衙も、真壁に設置されたものと推測致します。
恐らくは、現在の真壁城の場所に、郡衙があったものと推測致します。
そのため、平安時代に常陸大掾として源護が真壁に赴任すると、真壁の源護館としては現在の真壁城の奥の方にある鹿島神社付近にあったと伝わっているようです。
平将門の乱のあと平安時代末期になると、1172年に、真壁長幹(まかべ-ながもと) / 平長幹(筑波・多気城主である多気直幹の子)が真壁郡司となって真壁舘に入りました。
スポンサーリンク
真壁長幹
平安時代になって登場する真壁長幹は、常陸の常陸大掾職である多気山城主・多気直幹(大掾直幹)の4男・平長幹であり、真壁郷を領して真壁氏を称しました。
1193年に、兄とされる多気義幹が謀反の疑いを掛けられて失脚すると、八田知家が常陸守護となり、常陸・小田城を築城しました。
そのためか、真壁長幹の嫡男と考えられる真壁友幹の後妻である加藤景廉の娘の子・真壁政幹がいますが、母方の所領を受け継ぎ、美濃・真壁氏を起こしています。
その美濃・真壁氏が出自と考えられる、真壁高幹(まかべ-たかもと)は鎌倉時代末期の武将であり、南北朝時代には足利尊氏に味方しました。
また、真壁家の宗家系図には、真壁智幹・真壁満幹・真壁親幹らは自害・討死などと記載されています。
それらのことから、真壁高幹は戦功により、常陸真壁郡など9カ所の地頭職を得ていますが、分家が宗家の所領を継いだと推定されています。
史料にて真壁城が最初に登場するのは、南朝の有力武将である北畠親房が、常陸・小田城に助けを求めたあと、常陸・関城など転々とした際に「御方城々」として、真壁城の名前が見受けられます。
南朝に味方した関東六城として、常陸・関城、常陸・真壁城、常陸・大宝城、常陸・伊佐城、常陸・中郡城、下野・西明寺城とあります。
※常陸・中郡城と言う名称の城跡は現在認められず、羽黒山城または常陸・坂戸城、常陸・橋本城か?
常陸真壁郡小栗御厨(真壁郡小栗)を支配していた小栗満重(小栗判官)が、1422年、鎌倉公方の足利持氏に対して謀反を起こし、小栗満重の乱(小栗氏の乱)となります。
このとき、宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らは小栗家に味方しましたが敗れて、常陸・小栗城も真壁城も落城しました。
その後、真壁慶幹の従兄弟・真壁朝幹が真壁城主となったようで、庶子の真壁氏幹との間で、真壁家は内紛状態に陥いりました。
その後、真壁尚幹、真壁治幹、真壁宗幹と続きますが、常陸・小田城の小田政治とも争いとなってきました。
そして、真壁久幹が現れます。
真壁久幹
真壁久幹(まかべ-ひさもと)は、1522年に真壁宗幹の子として生まれました。
この頃の真壁氏は、常陸・小田城の小田家に従う小領主と言う状況ですが、その小田家も海老島の戦いなどで敗北しており、頼りになりません。
そのためか、1548年、小田政治が死去すると、結城政勝の家臣で下館城・水谷治持の説得を受けて、真壁久幹は、下総・結城城主である結城政勝に寝返りました。
その後、真壁久幹は結城勢として活躍し、武功をあげました。
塚原卜伝から剣術を学んだともされます。
1550年には、嫡男・真壁氏幹が誕生しています。
1560年、常陸・府中城の大掾慶幹を攻めていますが、古河公方・足利義氏の仲介で和睦しました。
1561年、常陸・太田城主の佐竹義昭が進出してくると、以後は佐竹家に味方し、常陸・片野城主になっていた太田資正の次男・梶原政景には、娘を嫁に出して連携を強化しました。
また、真壁久幹の次男は佐竹義昭から偏諱を受けて真壁義幹と称して柿岡城に分家しました。
1569年、佐竹氏が小田氏治と戦った、手這坂の戦いで、真壁勢は配下の根来法師大蔵坊が鉄砲で、岡見治資を狙撃したとあり、大勝利にも貢献し、小田城の攻略にも戦功を挙げました。
そして、梶原政景と活躍するようになった嫡男・真壁氏幹に家督を譲って隠居し、闇轢軒道無と号しました。
ともあれ、真壁氏は、佐竹氏と北条氏との間をうまく渡り歩き、最終的には佐竹氏の家臣として存続することになります。
真壁氏幹
真壁氏幹(まかべ-うじもと)は、北条氏政の偏諱を受けて真壁氏幹と称したようです。
鬼真壁・夜叉真壁との異名もある猛将であり、長さ2メートルある木杖(樫木棒・金砕棒)を振り回していたとされます。
ちなみに真壁城を訪問した際に、アプリゲームの城取りを行いましたら下記のように表示されました。
ただ、その武勇は父譲りだった模様で、親子で恐れられたようで、そもそもの鬼真壁は父である真壁久幹を差しのではないかとする説もあります。
その父・真壁久幹は1589年に死去し、その翌年には豊臣秀吉の小田原攻めとなりました。
このとき、佐竹義宣は豊臣家に臣従し、真壁氏は真壁・筑波両郡に4500石と定まり、佐竹氏の家臣と言う立場になりました。
真壁氏幹は子がいなかったため、弟・真壁義幹の子である真壁房幹が家督を継いでいますので、真壁氏の本拠地は柿岡城になったようです。
朝鮮攻めでは、佐竹勢として肥前・名護屋城に出陣しています。
関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏が秋田の久保田城に転封となった際には、54万石から20万石への減少でもあったため、真壁氏も家臣の数を減らされます。
真壁房幹と弟・真壁重幹は僅かな家臣と共に秋田に赴き、角館城下に住んだようですが、真壁氏幹や多くの家来は残ったようです。
真壁氏幹は1622年に死去しました。
下館藩主になっていた水谷勝俊の世話を受けていたのか?、墓所は、下館の常林寺です。
その後、真壁には浅野長政が50000石で入封し、真壁陣屋が置かれたようです。
真壁陣屋は、現在の真壁伝承館歴史資料館がある場所となります。
浅野長政は、豊臣秀吉にもっとも近い親戚で、五奉行(浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)の筆頭でした。
そのため、関ヶ原の戦いの前に、徳川家康暗殺計画の疑いを掛けらます。
このとき、浅野長政は無実を証明するため所領から離れて、自ら江戸城に近い、武蔵・府中の屋敷で謹慎しました。
その神妙な心構えと、嫡男・浅野幸長が徳川秀忠軍に加わって、上田城攻めなどに参加するなど貢献したことから、許されます。
浅野家は和歌山城にて37万石となり、1605年に浅野長政が隠居すると、1606年、徳川幕府はその隠居料として常陸・真壁藩5万石を与えたと言う事になります。
この時、真壁で浪人していた、旧真壁家の家臣らも、浅野家が迎えたようです。
1611年、浅間長政は真壁陣屋にて死去。享年65。
菩提寺には真壁郡桜井村の伝正寺です。
次男・浅野長晟(あさの-ながあきら)は、長兄・浅野幸長に子がいなかったため、和歌山藩を継ぐ予定だったことから、真壁藩は三男・浅野長重(あさの-ながしげ)が真岡藩2万石から移ってきました。(真岡2万石は幕府返上)
スポンサーリンク
この浅野長重には、1500石の筆頭家老である大石良勝(おおいし-よしかつ)がいました。
大石家はもともと、関白・豊臣秀次の側近でしたが、浅野家が召し抱えていました。
大石良勝の軍功もあり、浅野長重は大坂の陣で徳川勢として活躍するなどの功績が認められて加増を受けると、53500石にて笠間藩に移ります。
笠間藩主となっても浅野長重は笠間城に入らず、真壁の陣屋で政務を執り、父の菩提を弔ったと言います。
スポンサーリンク
笠間城の城代となった家老・大内良勝の家系からは、赤穂浪士の大石内蔵助で有名な大石良雄が出るに至りました。
このため、赤穂浪士47人の忠臣には、真壁出身の家柄である潮田又之丞高教(うしおだ-またのじょう-たかのり)や、剣術の達人である勝田新左衛門武尭(かつた-しんざえもん-たけたか)などがいます。
詳しい人数は不明ですが、47人中30人程度は真壁や笠間の出身藩士の家柄だったようです。
その他、真壁氏の一族(支族)も多く、庶家としては、下記の姓名を称しています。
北氏、西氏、南氏、東氏、長岡氏、西館氏、新白井氏、椎尾氏、古宇田氏、源法寺氏など。
いずれも「幹」の字を、通字として名前に用いていますが、これは、桓武天皇の流れを汲む常陸平氏・大掾氏の惣領家である、多気氏(たけし)の一族(庶流)が、真壁氏であるためと言った方が良いでしょう。
いずれにせよ、多気氏の一族ですので、真壁氏は名門と言えます。
雨引観音にある薬医門は、真壁房幹が真壁城から寄進・移築したものです。
真壁のその後は春日局の子である稲葉正勝が5000石で領しましたが、稲葉正勝が真岡藩4万石となると天領になりました。
現在、真壁城は発掘調査も盛んで、土塁などの復元工事も行われており、整備が続いています。
スポンサーリンク
交通アクセス
真壁城跡への交通アクセス・行き方ですが、下記のとおりです。
JR水戸線の岩瀬駅前にあるレンタサイクルを借りると、岩瀬駅から真壁まで約10km、自転車で60分となります。
歩くと徒歩3時間で、タクシーだと20分です。
東京からくる場合には、つくばエクスプレスの終点「つくば駅」で下車して、つくばセンターの「つくバス」3番乗り場から、北部シャトルに乗車して約50分「筑波山口バス停」で下車します。
そして、バスを乗り換えて、桜川市バスの岩瀬駅行きにて約25分「下宿(しもじゅく)」バス停下車となります。
バスの本数は少ないです。
スポンサーリンク
駐車場は、真壁第1体育館の駐車場(100台)の利用が認められています。
観光バスも止められますが、事前に真壁体育館に連絡必須との事です。
また、北東側にも新しく無料駐車場ができるなど工事が続いています。
2箇所の駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてわかるようにしておきます。
なお、真壁城跡については、真壁伝承館歴史資料館にて展示もあります。
無料で見学できますので、先に寄ってから真壁城に行くと、予備知識も良いのではと存じます。
真壁の街は、歴史を感じる古い街並みになっており、事前予約すれば、レンタル着物のお店などもあります。
真壁城の見学所要時間ですが、くまなく見ると1時間、本丸付近だけであけば15分といったところです。
・多気山城(多気城) 多気義幹 筑波の北条にある関東七名城
・佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
・小田氏治 弱小?異色?負けても何度も復活した戦国大名
・梶原政景(梶原景国)とは
・佐竹義重 毛虫の兜をかぶった常陸の猛将
・土浦城 ほどよい広さが良い茨城の続日本100名城
・柿岡城 なかなか有名な武将が歴任した裏筑波の城
・常陸・関城の解説 関城・大宝城の戦い
・下館城 水谷正村と水谷勝俊 不敗伝説を作った水谷氏
・常陸・藤沢城~万里小路藤房【小田氏治の戦歴を詳しく】
・雨引観音 格式ある建物もある風光明美なパワースポット
・笠間城 天守に石垣も残る続日本100名城 笠間綱家も
・筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城の防御は弱かった?
・日本全国のお城マップ
真壁クリニックの院長先生が、開院直後に自分のルーツをさがしたが、矢谷より前の事がわからないので、叔父さんはしらないかと尋ねられたが、私も同じ辺りまでしか、知らなかったので気にしていたが、矢谷より前の事はわからなくて、この記事で関東から岡山県新見市への繋がりがわかりました、とても嬉しいです。早速知らせてやります、喜ぶ顔が目に浮かびます。