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古間木城のちょこっと解説~渡邉宗隆・渡邉宗重・渡邉元義・渡邉勝重らの常陸の居城

古間木城

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古間木城

古間木城(ふるまぎじょう)は、茨城県常総市古間木にある平城(微高地)で、現在渡辺食品株式会社の私有地となっている。
そんなに高くはないが舌状台地の先端にあり。往時は湿地帯か深田に囲まれていたものと推測できる。
最初の築城は不明だが、戦国時代の古間木城主としては、平安時代中期の武将である渡辺綱(わたなべ の つな)からの嵯峨源氏・渡辺氏の一族。


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ちなみに、渡辺綱は摂津と言うイメージが強いが、それは母と考えられる源満仲の娘の領地に移住したためだ。
渡辺綱の父は源宛(みなもと の あつる)と言う武蔵国守の家柄(嵯峨源氏)であり、その父は武蔵国足立郡箕田村(鴻巣市)出身である。
母の父・源満仲は、上総介、常陸介、武蔵守、摂津守、越後守、越前守、下野守、美濃守、信濃守、伊予守、陸奥守を歴任していた。
そのため、常陸にもちょっとは渡辺氏の領地があってもぜんぜんおかしくはない。

太田道灌の死後、1488年1月、扇谷・上杉定正・足利成氏・長尾景春が連合して、古河公方・足利成氏との対立となる。
この年、2月5日には、相模・実蒔原の戦いで両軍が激突した。
その後、1488年6月18日、武蔵・須賀谷原(嵐山町菅谷)にて菅谷原の戦い(須賀谷原の戦い)となり、足利成氏・長尾景春を味方にした扇谷・上杉定正が勝利した。
渡邉軍記によると、古間木城主の渡邉宗隆(渡邉新兵衛尉宗隆)とその子・渡邉宗重は、古河公方・足利成氏に従ったようだ。
また、1503年には野田城、1519年には椎津城の戦いなど、古河公方の軍勢として出陣する武功を挙げたようで、平塚村(八千代町の一部)の領地を賜った言う。

古間木城

かつては平将門もこのあたりを本拠地としていたように、豊かな土地だったようで、渡辺氏も最盛期には1万貫を誇ったようだ。
しかし、結城城・結城政勝の重臣である下妻城主の多賀谷基泰(多賀谷家植、多賀谷祥潜)が支配領域を拡大させ、またたくまに多賀谷氏は主君・結城氏の2倍ほどの領地拡大を図る。

そのため、渡辺氏も向石毛城(下総・豊田館)の館武蔵守らと多賀谷氏に抵抗。
しかし、1535年正月3日、向石毛城は陥落して館武蔵守が討死し、長子・館播磨は母方の古間木城に落ち伸びたともある。
一時、結城氏の仲介で和睦するも、1575年、多賀谷政経は700にて、古間木城を攻撃したようで、手勢200の渡邉元義(36代目?)は討死。
守谷城の相馬胤房は古間木城の援軍に間に合わず、館播磨は多賀谷氏に降伏し、嫡男・渡邉勝重も多賀谷氏の配下に加えられたようだ。
東國闘戰見聞私記などにも、古間木城を攻防が記録されているらしい。


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1590年、豊臣秀吉小田原攻めのあと、下妻城主の多賀谷重経は石田三成と誼を通じて佐竹義宣の傘下に転じたが、関ヶ原の戦いでは上杉景勝に通じたため多賀谷氏は改易(領地没収)。
渡邉周防守勝重は帰農したようで、古間木城は廃城になったようだ。
筑波にも渡邉氏がおられるが関係もあるのだろうか?

古間木城がある場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

逆井城とのセット訪問がお勧め。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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