茨城県

久下田城(常陸・上館) 蟠龍斎が築いた常陸と下野の国境にある城

久下田城

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下田城(常陸・上館)

久下田城(くげた-じょう)は、茨城県筑西市樋口にある平城で、別名は常陸・上館とも言います。
最初の築城は平安時代中期の天慶年間(938年~948年)とされます。
939年に平将門が挙兵すると、唐沢山城主・藤原秀郷平貞盛・藤原為憲と、平将門の乱を鎮めました。
この時、平将門に対抗するために築いた三館があります。
それが、上館・中館・下館で、そのうちの上館(うえだて)が、久下田城である言われています。


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中館が伊佐城で、下館は皆様ご承知の通り下館城となります。

戦国時代に入り、結城城主・結城政勝と、宇都宮城主・宇都宮尚綱が対立すると、1545年、下館城主・水谷正村(蟠竜斎)は、宇都宮氏の侵攻を防ぐために、久下田城を改修しました。
常陸の最前線、城の北側は下野国と言う感じです。

水谷正村(みずのや-まさむら)は、結城氏の家臣で、結城四天王のひとりです。
武勇に優れていた水谷正村(水谷政村)は正室に、主君である結城政勝の娘・小藤姫を迎えています。

その後、宇都宮家の八木岡伊織ら約200騎の攻撃をされましたが、水谷正村が撃退しています。
また、宇都宮家の武田治郎ら約3000騎の大軍も押し寄せましたが、結城氏の援軍を受けて水谷正村は撃退しています。


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久下田城下では、真岡の木綿織を奨励し、勤行川の舟運によって真岡木綿の流通網を築き、久下田や下館の発展の基礎を築きました。
久下田城の城下町も大規模な構成であったと伝わります。
1544年には、宇都宮氏の下野・中村城を攻撃し、中村玄角を討ち取っています。
1569年、弟・水谷勝俊に家督を譲って蟠龍斎(はんりゅうさい)と名乗り出家しました。
水谷正村は久下田城に入って隠居し「久下田蟠龍斎」と称しています。
下記は現在の城下の様子です。

久下田城

中館は後に伊佐氏により改修され伊佐城に、下館は水谷勝俊(みずのや-かつとし)により改修され下館城になったとされます。

水谷勝俊は、1590年、小田原攻めのあと、豊臣秀吉から結城晴朝の与力大名を命じられます。
関ヶ原の戦いのあと、結城秀康北ノ庄城に転封となると、水谷勝俊は独立大名として認められて、3万1000石にて下館藩主となりました。

下館藩の第2代藩主・水谷勝隆(みずのや-かつたか)は、1639年に備中・成羽藩5万石、1642年には備中・松山藩5万石となって移封しています。
そして、水野勝宗の代に、備中・松山城は天守など3年にわたる大修築が行われて、現在の姿になったと言う事になります。

西側は真岡線が走り、東は旧勤行川に挾まれた山王台の突端があり、城址公園になっている二の丸、空濠及び馬場跡があるようです。
本丸跡には稲荷神社が建てられていたようですが、放火にあった模様です。
なお、あまり整備されていないようで籔が多く、夏と言う事もあり、熱中症などの体調面も考慮して、今回、登るのは見合わせました。


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久下田城への交通アクセス・行き方ですが、真岡鉄道の久下田駅から徒歩約15分の距離となります。
駐車場がなく、集落の道路は狭く、駐車禁止ではないとは言え、地元の皆様の迷惑になりますので、登城は控えました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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