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上総・佐貫城(富津市)の歴史解説~真里谷全方など上総武田氏と「里見義弘」の居城

佐貫城

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佐貫城とは

上総・佐貫城(さぬき-じょう)は、千葉県富津市佐貫にある平山城で、標高72m、比高60mほどになります。
初期の城主は定かではありませんが、真里谷・武田氏(上総武田氏)が居城したと考えれ、応仁年間(1467ねん~1469年)に武田義広が築いたもされます。
上総・佐貫城は、江戸時代にもある程度使われたようで、城址には石垣や堀、曲輪跡などの遺構が残っているとのことです。
<注釈> 千葉県旭市にも下総・佐貫城があるので注意が必要。

佐貫城

特に、石垣が認められるのは、上総国では非常に珍しいと言えます。

真里谷全芳(武田信秋)

真里谷城主・真里谷信勝は、小弓城を奪い、その子である真里谷全方(まりやつ-ぜんほう)が佐貫城に入ったようです。

当主の真里谷恕鑑(まりやつ-じょかん)が1534年に死去すると、事前に決まっていた通り、庶長子・真里谷信隆(峰上城主)が家督を継ぎます。
しかし、正室の子でまだ幼少だった真里谷信応と、1537年頃から対立し上総・武田氏の家中は内乱となりました。
小弓公方・足利義明と、真里谷全方らと里見義堯はは、正室の子・真里谷信応を支持したため、真里谷信隆は真理谷城を出て、峰上城、造海城、天神台城などで抵抗しました。


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峰上城の真里谷信隆は、足利義明の攻撃を受けたようで、造海城百首城)へ撤退し籠城しました。
しかし、真里谷信応に寝返った里見義堯に攻められたことで、下総・上総・安房の勢力の多くが小弓御所に味方することになりました。
そのため、真里谷信隆は和歌を百首詠むことを条件に、開城をしたという逸話があります。
その後、真里谷信隆と子の真里谷信政は、小田原城の北条氏を頼り、武蔵国金沢(神奈川県横浜市金沢区)に逃れて隠居しました。

佐貫城

こうして、小弓御所、上総武田氏、里見氏は、北条氏と対立するようなります。

なお、里見義堯の仲介を受けて、真里谷全芳(武田信秋)は北条氏綱と和解します。
そして、峰上城は、真里谷全芳に預けられました。
真里谷全芳は、真里谷信応を補佐し、小弓公方などと交渉も担っています。
真里谷全芳(武田信秋)が亡くなったあとは、子の真里谷義信が、佐貫城主となりました。

しかし、長くは安定せず、1538年、第一次国府台合戦にて、足利義明が討死し、小弓公方は滅亡します。
勢いに乗った北条勢は、小弓城、真里谷城を攻略し、真里谷信応は降伏しました。
追われた真里谷信応は、里見義堯を頼ったとされていますが、里見義堯も真里谷氏の久留里城、真里谷朝信の大多喜城などを占領し勢力を拡大しました。
北条氏綱は、真里谷信隆を上総に戻し、真里谷氏の当主に復帰させますが、真里谷氏の旧領は多くを失っていたため椎津城を本拠としています。
その頃、佐貫城も、里見氏の勢力下に入ったと考えられますが、1545年には、北条氏康が一時、佐貫城を占領するなど攻防が繰り広げられたようです。
1551年、真里谷信隆が死去すると、子の真里谷信政が家督を継ぎますが、増々、北条氏と里見氏の介入を受けます。


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1552年、北条氏康は万喜城土岐為頼を味方にしようとしたため、里見義堯が反発し、正木時茂・土岐頼定らによって真里谷信政(武田信政)の椎津城は攻撃を受けました。
この時、里見氏のもとにいた、真里谷信応は、里見氏から離反して、甥の真里谷信政を助ける行動に移りました。
しかし、椎津城は陥落して、真里谷信政は自刃し、3日後、真里谷信応も自害に追い込まれ、真里谷氏(上総・武田氏)は滅亡しました。

だいぶ話がそれてしまいましたが、佐貫城の話に戻します。
1555年、北条氏康は、再び佐貫城を占領したと、結城晴朝に知らせている文献があります。

これは、百首城の正木時盛と、安房・勝山城正木輝綱(正木安芸守輝綱)が北条氏康に寝返ったと考えられます。
そして、北条氏康は北条綱成に佐貫城と峰上城を攻略させ、内房正木氏の家臣である吉原玄蕃助を峰上城に配置したようです。

1556年、里見義弘は佐貫城を奪還し、里見水軍を出航させて浦賀城、相模・三崎城を攻撃し、更には鎌倉を攻撃しました。
このように、佐貫城は、当時、海のほうにも突き出ていたようで、里見水軍の海城にもなっていたようです。

佐貫城

里見義弘とは

里見義弘(さとみ よしひろ)は、里見義堯の子として1530年に生まれました。
母は万喜城主・土岐為頼の娘です。
はじめは、里見義舜と称しました。
妻は、小弓公方・足利義明の娘である青岳尼しょうがくに)です。
この正室・青岳尼は、鎌倉尼五山筆頭太平寺の尼僧となっていたようですが、1556年に里見水軍が三浦から鎌倉へと攻撃した際に里見義弘が見初めたとされます。
里見義弘は太平寺にいた青岳尼を訪れると、還俗して自分の妻になるよう要請しました。
青岳尼はこれに応じて江戸湾を渡ると、里見義弘の居城・佐貫城に入り正室になったとあります。
しかし、病弱だったようで、1576年頃に死去したともされます。


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1559年頃、佐貫城は再び北条氏の持ち城となっています。
父から家督を譲られて安房・里見氏の6代となると、1561年、上杉謙信によって古河御所を追われた古河公方・足利義氏が北条氏康を頼り、下総・小金城を経て佐貫城に仮御所を置きました。
1563年頃、里見義弘は再度佐貫城を奪還しており、足利義氏は鎌倉へ逃れています。

1564年には第二次国府台合戦で北条綱成と戦いました。
この第二次国府台合戦では敗北したことから、母の父・土岐為頼は北条氏に寝返っています。
他にも、正木時忠酒井敏房ら上総国の有力領主が離反し、上総国の大半を失いました。

1567年、北条氏が南下してきたため、里見義弘と正木憲時らは佐貫城より出陣して、三船山合戦(三船山の戦い)となりました。
劣勢ながらも大勝利を収めた里見義弘は、佐貫城を本拠地として安房国・上総国・下総国にかけて支配し里見氏の最盛期を迎えています。

1570年頃、古河公方・足利晴氏の娘との間に、嫡男・梅王丸(里見義重)が生まれました。
古河公方はかつて小弓公方と敵対関係でしたが、北条氏対策のため古河公方との関係改善を図ったようです。
しかし、すでに養子にしていた里見義頼を後継ともしていたため安房と上総と領土分割を命じ、死後には里見氏の分裂を招きます。
1578年、里見義弘は佐貫城で病死。

1580年、安房・館山城の里見義頼し、嫡男・梅王丸と佐貫城代・加藤信景(加藤伊賀守信景)を攻めると、加藤信景らは屈服したため、以後、里見氏の本拠は安房となりました。
以後、佐貫城は、加藤信景や、子の加藤弘景(加藤太郎左衛門弘景)が引き続き、守備したようです。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの後、里見氏は安房一国に減封となり、徳川家康の家臣・内藤家長が佐貫城主となっています。
内藤家長は、1600年、関ヶ原の戦いの際に、伏見城にて徳川勢として籠城して討死しており、南側の山には内藤家長の墓所もあります。


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江戸時代に入ると、松平忠重が1万5000石の大名となり、佐貫藩が成立しました。
のちには、柳沢吉保、阿部正鎮などが、佐貫藩主となっています。

交通アクセス

佐貫城への行き方ですが、JR内房線の佐貫町駅から歩くと、登城口まで約30分の距離です。
大手の三の丸の一部が未舗装の駐車スペース(10台ほど)となっていますので、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
下記写真の道を上がったところが、駐車場です。

佐貫城の駐車場

クルマを止められるのは、ほんとうにありがたいですね。
当方の地図は、スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

このあとは、峰上城へ向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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