神奈川県

三崎城 三浦氏の本拠地

三崎城




相模・三崎城(みさきじょう)は、神奈川県三浦市城山町にある平山城で、鎌倉時代の後期に、三浦宗家が滅亡したあと、相模三浦氏を興した佐原盛時が築城したとされていますが、確かな事はわかりません。
別名を新井城(あらいじょう)とも呼ぶため、近くの油壷にある新井城(荒井城)と混同しやすいです。
1516年に、北条早雲三浦道寸(三浦義同)の新井城(荒井城)を落すと、三崎城も落城し、残された三浦勢は城ヶ島にて抵抗したと言われています。
城ヶ島に籠った武将の名としては、亀崎、鈴木、下里、三富、出口などが見受けられます。
彼らは三崎城(三崎港)の船を全て城ヶ島に移動させたこともあり、困った北条早雲は鎌倉の建長寺円覚寺の和尚に調停を頼んでいます。





相模を平定した北条早雲(伊勢盛時)は、この三崎城を改修して三浦半島の本拠地とし、横井越前守らを配置しました。
船手大将としては梶原備前守、出口五郎左衛門尉らが三崎十人衆として見受けられます。

また、新井城(荒井城)の方に関しては三浦水軍を配置して水軍城としたと考えて良いでしょうが、三浦城の麓にある現在の三崎港も、天然の港としては使えるため、もちろん舟も配置されていたと思います。

当然、安房・里見氏に対する備えであったり、房総半島へ進出する際の拠点にもなる場所です。





里見氏も、なんどか三浦半島に押し寄せてきており、新井城や三崎城が奪われて、三浦半島の南部が里見家の領地になっていた時期もあります。

1556年10月には、里見義堯の嫡男・里見義弘が里見水軍80隻を率いて城ヶ島を占拠。
北条勢は三崎城にて清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らが防戦し、援軍として金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣し、三崎城の海戦となっています。
この時、北条勢は敗北し、三崎城、新井城が里見義弘に占拠されました。

しかし、北条氏康(北條氏康)が奪還した後は、三崎城主に北条氏規(北條氏規)が入り、守りを固めました。
なお、豊臣秀吉小田原攻めの際、北条氏規は韮山城にて籠城したため、三崎城は家老の山中氏が預かるも、開城・降伏しています。

徳川家康が江戸城に入ると、向井水軍の向井正綱の屋敷が構えられたとされています。

なお、城ケ島は現在でも多くの観光客が訪れる風光明媚なところであるため、1519年には北条盛時(北条早雲、北條早雲)、1565年には北条氏康が静養のため、三崎城を訪れています。





現在の三崎城は、堀切が道路になっていたり、跡地には市役所や中学校などが建っており、目だった遺構はありません。

三崎城の石碑は、三崎中学校の南側道路脇、下記の地図ポイント地点にあります。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
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資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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