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峰上城の歴史解説~吉原玄蕃助と二十二人衆による里見氏への反乱

峰上城

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峰上城とは

峰上城(みねがみじょう)は、千葉県富津市上後にある山城で、標高126m、比高90mほどになります。
別名は、環城、玉木城(峰上の玉木の城)とも言います。
最初の築城は不明ですが、戦国時代の1533年に上総武田氏で真里谷城の武田信興(真里谷信興)が築いて、弟・真里谷信武を峰上城主にとしたされます。
<注釈> 真里谷信興は、1511年に死去しているため年代が合わない。(家系図の混乱もある)
いずれにせよ南の里見氏に対抗するための城であり、他にも造海城などが築城されました。
今回、時間もなかったため、麓からの撮影に留めましたが、全容としては崖もあり要塞と言うにふさわしいようです。
危険なところもあるようですので、登城される場合には、どうぞご注意頂ければと存じます。


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1534年、真里谷氏(上総・武田氏)では、家督をめぐる争いとなり、真里谷城を追われた武田信隆(真里谷信隆)は峰上城を中心に防御を固め、子の真里谷信政は造海城に入りました。
しかし、1537年、小弓公方の足利義明と真里谷信応らに敗れて、上総・峰上城を開城すると造海城(百首城)も寝返った里見義堯に攻められ、小田原城の北条氏を頼って落ち延びています。

1538年、第一次国府台合戦にて、里見義堯・真里谷信応に従い峰上城の真里谷義房(武田義房)も出陣したようですが、討死したようです。
その後、北条氏綱と和解した武田信応の後見人である真里谷全芳が峰上城に入ったようで、里見氏の城となりました。
1539年、真里谷全方の子・真里谷義信が、峰上城の北西にある六所神社を再建しており、峰上城主を継いだのか、父と一緒にいたと考えられます。
そのあとか?真里谷全芳の子・真里谷義信(武田義信)は佐貫城へ移りました。

峰上城の歴史で興味を抱くのは、里見氏への抵抗を続けるようにと、尾崎曲輪の吉原玄蕃助ら22人衆にあてた古文書(1554年)が残っていることです。(鳥海文書)
中城とよばれる郭の西側に尾崎曲輪があり、正木氏の家臣・吉原玄蕃助と二十二人衆が、反乱を起こして拠っていたようです。
これは、百首城の正木時盛と、安房・勝山城正木輝綱(正木安芸守輝綱)が北条氏康に寝返ったこともあり、北条氏康は北条綱成に佐貫城と峰上城を攻略させ、内房正木氏の家臣である吉原玄蕃助を峰上城に配置した模様です。
そして北条氏は、吉原氏らに兵糧米などの援助を送る約束をしていました。
吉原玄蕃助らは上総・金谷城も攻撃して、火を放ったともあり、里見氏は峰上城から安房・妙本寺付近までの海岸線と制海権を失っていたと考えられます。


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1577年、里見義弘と北条氏が和議とにると、正木氏の家臣らは造海城に移り、峰上城は廃城になったと考えられます。
今回登城までは予定していなかったため、駐車場などは不明です。
申し訳ありません。

佐貫城からやってきて、このあとは造海城へ向かいました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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