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上総・金谷城の歴史解説~里見実堯・正木時茂の活躍

上総・金谷城

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上総・金谷城とは

上総・金谷城(かなや-じょう)は、標高118mの山城(海城)で安房と上総の国境にあり、明鐘城とも呼ばれます。
最初の築城は不明ですが、戦国時代には里見実堯が城主だったとみえます。
鋸山から東京湾を見下ろす眼下にあると言う感じです。

上総・金谷城

里見実堯

里見実堯(さとみ-さねたか)は戦国時代の武将で、1484年に生まれました。
父は里見義実または里見成義とされ、母は三浦・横須賀氏の娘となります。
兄に安房・里見氏3代目の里見義通がおり、安房・稲村城から里見氏が戦国大名になるのを里見実堯も支えたと考えられます。
里見実堯は、安房・金谷城に入って、正木通綱ら安房・上総の三浦一族を服属させました。
里見実堯の正室は佐久間盛氏の娘で、子に里見義堯がいます。


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1518年、兄・里見義通が危篤となると、長男・里見義豊が家督を継いで里見氏4代となり、叔父にあたる里見実堯が陣代(後見人)となっています。
どうも、里見義豊が15歳になるまで、里見実堯が家督を代行すると言う話だったようです。
里見実堯は本拠地の安房・稲村城に入り、幼い里見義豊は支城の宮本城、里見実堯の子・里見義堯は引き続き上総・金谷城に残りました。

1526年には、里見水軍を率いて東京湾を横断し、鎌倉鶴岡八幡宮の戦い)を攻撃もしています。
しかし、里見実堯は、里見義豊が15歳を過ぎても実権を握って、北条氏綱の侵攻に備えるのを理由にして、家督を里見義豊に譲りませんでした。
また、安房・山之城の正木通綱を重用するなどしたため、古い家臣らの反発も招いたようです。

こうした状況下で、里見実堯が北条氏と通じているとの風評が流れ、譜代の重臣らは小弓公方・足利義明の了承を得て、1533年7月27日の夜、里見実堯と正木通綱を稲村城に呼びよせると誅殺しました。(稲村の変
稲村の変(天文の内訌)で父を殺害した里見義豊は、すぐさま上総・金谷城の里見義堯を攻撃しています。
難を逃れて安房・山之城に逃げ帰ったという、重臣の正木時茂正木時忠の兄弟らも百首城に合流して籠城し、北条氏綱の支援を求めました。
北条氏からは、北条為昌が水軍を率いて、保田・妙本寺近くで里見義豊の軍勢を撃破しています。

犬掛の戦い

北条氏綱の援軍を得た里見義堯と正木兄弟らは、翌年1534年に挙兵し、犬掛の戦い(いぬかけのたたかい)となりました。
犬掛の地で合戦となり、里見義豊は討死しています。(享年21)
これにより、里見義堯が里見家の第5代当主となり、1535年、上総・久留里城を改修し本拠を移しています。(攻略したとも、武田真勝に城を譲らせたとも)
そして、里見氏の全盛期を築き上げていきました。(後期里見氏)

正木時茂

正木時茂(まさき-ときしげ)は、安房・山之城の正木時綱の子として1513年に誕生しました。
母は里見義通の妹の可能性があります。
稲村の変を生き延び、犬掛の戦いなどでの功績にて上総・金谷城主となりました。
1年後の1535年、北条氏綱が扇谷・上杉家と戦った際には里見家からの援軍として派遣されています。


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1537年頃から上総・武田氏(真里谷氏)が同じく家督相続で内乱になると、小弓公方・足利義明と真里谷全方らと里見義堯は、真里谷信応を支持しました。
真里谷信隆は北条氏綱の支援を受けましたが、劣勢となり真理谷城を出て峰上城造海城、天神台城などで抵抗を続けています。
この時、真里谷丹波守信隆は、上総・金谷城には、家臣の佐久間藤内を守備されたともされます。

この真里谷氏での抗争にて、里見義堯と北条氏綱は支持相手が違ったと言う事もあり、関係はこじれて、1538年、第一次国府台合戦へと発展しています。
里見義堯・正木時茂らも参じましたが、小弓公方・足利義明に従う気が薄かった里見勢はろくに戦わず、足利義明は討死し北条勢が大勝利を収めました。
戦力を温存できていた里見義堯・正木時茂らは、上総方面の攻略を進めました。

1541年頃には、正木時茂が天津城(葛ヶ崎城)を陥落させ、1542年、上総・勝浦城を攻略すると弟・正木時忠が移って勝浦正木氏となっています。
1544年には正木時茂が真里谷朝信を討ち、大多喜城(小田喜城)に入った正木時茂は、安房・正木氏は本拠を移しています。

1554年頃、北条氏康の支援を受けて峰上城の尾崎曲輪にて反乱をおこしていた正木弥五郎の家臣・吉原玄蕃助ら22人衆が、上総・金谷城も攻撃して火を放ったともあります。
この当時、保田・妙本寺の住職・日我が、戦乱を避けて金谷城に寺宝や自分が編纂した「いろは辞典」などを持参して疎開していたので、記録が残っています。
日我は安房・勝山城の沖にある浮島に避難しました。
1555年に、金谷城は落城したとあり、里見義堯は内房正木氏の離反を防ぐため金谷城の明け渡し認めたようです。
そのため、城から出たと考えられる正木時忠はのちのちまでこのことを恨みました。
そして、正木兵部大輔が金谷城に模様ですが北条家から里見家に降ったため、代わって内房正木氏の当主になった造海城の正木時盛(正木淡路守時盛)の支配となりました。
しかし、しだいに国境警護の重要性は薄れた模様です。
正木時盛(正木淡路守時盛)と子の正木源七郎は、とともに百首城(造海城)に見られます。

1561年、上杉輝虎(上杉謙信)が関東に出陣に際しては、里見義堯の嫡男・里見義弘に従って、正木時茂と嫡男・正木信茂も参陣しました。
正木時茂は、1561年4月6日に死去。

家督は正木信茂が継ぎ、里見義堯の娘・種姫を正室に迎えているようです。
しかし、1564年、第二次国府台合戦にて、正木信茂は討死しました。享年25。
若くして出家し、山中に隠棲した種姫は、南総里見八犬伝に登場する「伏姫」のモデルともされます。
安房・正木氏を継いだのは、一族の正木憲時(まさき-のりとき)となりますが、1574年に里見義堯が死去すると、興津城を拠点に反乱を起こしたとされ、里見義頼に大多喜城を攻められて、太田康資とともに家臣に殺害されたと言います。

1577年、里見義弘が北条氏と和睦すると、造海城が重視され、上総・金谷城は使われなくなった模様です。


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上総・金谷城は、鋸山の西に延びる丘陵端、東京湾に面した崖上にあります。
東京湾フェリーも発着する金谷港は、里見水軍の拠点にもなっていたことでしょう。
遺構は、土塁・堀切・竪堀・櫓台・腰曲輪などがあるようです。

現在、金谷城の敷地は、東京都情報サービス産業健康保険組合が所有するTJKリゾート金谷城と言う宿泊研修施設になっており、組合員でないと宿泊できないようです。
私有地ですので、一般の方は許可が無いと立入りできませんのでご注意願います。
ただし、管理者がいた場合にはお願いすると、快く立入りを許可してくれたと言う話もあります。


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今回はまだ朝9時前でしたので、海岸線からの撮影に留めました。
本当であれば鋸山に登って撮影したかったのですが、海上の天気が若干悪かったため、それも断念しています。

造海城からきて次は安房・勝山城を目指しました。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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