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造海城(百首城)の解説~復帰を目指した真里谷信政の頑張り

造海城(百首城)

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海城(百首城)とは

造海城(つくろうみ-じょう)は、千葉県富津市竹岡にある標高約100mの山城(海城)です。
別名は、百首要害、竹ケ岡台場とも言い、百首城と言う名称もよく使われます。
東京湾の浦賀水道・東側にあり、海岸沿いの独立峰築かれた天然の要害です。
北側は白狐川の河口で竹岡漁港があり、水軍基地としても機能していたと考えられます。

造海城

最初の築城としては、室町時代に上総に入った上総・武田氏で真里谷城の真里谷信興が、1461年に築いたとされます。
「つくろう、うみ」にと言うキャッチフレーズにて、つくろうみ(造海)と言う名称になったのか?は定かではありませんが、小舟を漕げば対岸の三浦半島・久里浜にある相模・浦賀城まで3時間~4時間ほどで移動できたようです。

その後、真里谷氏では1534年に真里谷恕鑑(まりやつ-じょかん)が死去すると、事前に決まっていた通り、庶長子・真里谷信隆(峰上城主)が家督を継ぎます。
しかし、正室の子でまだ幼少だった真里谷信応と、1537年頃から対立し家中は内乱となりました。
小弓公方・足利義明と真里谷全方らと里見義堯と、正室の子・真里谷信応を支持したため、真里谷信隆は真理谷城を出て峰上城、造海城、天神台城などで抵抗しました。
造海城(百首城)は、真里谷信隆の子・真里谷信政が守備したとされます。

真里谷信政

真里谷信政(まりやつ-のぶまさ)は、前述のとおり真里谷信隆の子となります。
1537年、小弓公方・足利義明の介入により真里谷信応らとの対立は劣勢となり、父・真里谷信隆が上総・峰上城から造海城に逃れています。
しかし、里見義堯が寝返って造海城(百首城)に攻め寄せたため降伏の交渉を行いました。
開城降伏条件としては下記の通り伝わっています。

・百首の和歌を詠むのと城兵の命の保証を条件に降伏

百首の和歌を詠めば開城する?と言う、ちょっと、理解に苦しむ条件ですので、もう少し詳しく調べてみました。


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どうやら百首の和歌を作ったのは攻めての里見勢のほうだったようで、真里谷氏が、この風光明媚な造海城周辺の風景に関する和歌を100首提出すれば、降伏するよと言う内容だったらしいです。
里見氏の武将らはすぐさま百首を詠じて届けたので、真里谷氏(上総・武田氏)は開城したとされ、以後「百首城」と呼ばれるようになりました。
漁村の名も百首村でしたが、縁起が悪いということで幕末に竹ヶ岡(竹岡)と改められています。(幕末の1810年には陸奥・白河藩主の松平定信により竹ヶ岡台場が設置された)

真里谷信隆と真里谷信政は、浦賀水道を渡り、小田原城の北条氏を頼って落ち延び、武蔵国・金沢八景付近にて暮しています。

その後、造海城(百首城)には里見勢の正木氏が城主となり、里見水軍を統括しました。

ちなみに北条氏綱は、真里谷信隆と真里谷信政を支援して上総・安房への進出を狙っていました。
1538年に第一次国府台合戦にて足利義明が討死すると、上総の真里谷信応は衰退し、北条氏綱は真里谷信隆と真里谷信政を上総に入れました。
上総・武田氏の当主・真里谷信応は家督を奪われ、里見義堯を頼ったとされます。
ただし、造海城や峰上城は里見勢の勢力圏であり、真里谷信隆らはだいぶ北方の姉ヶ崎にある椎津城に復帰するのが精一杯でした。


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里見氏を頼った真里谷信応も復帰を目指しており、1541年ごろより、再び真里谷一族では内紛となり、上総・笹子城、上総・中尾城なとで争いが続きます。
裏では北条氏・里見氏がそれぞれを支援する名目で軍勢を派遣したため泥ぬまとなり、真里谷信隆は笹子城の武田信茂を殺害するなどして真里谷氏は混乱を極めました。
そんな中、1551年に父・真里谷信隆が死去すると、北条氏康万喜城の土岐氏を調略しようとしたため、里見義堯が反発し正木時茂が真里谷信政を攻撃しました。
大多喜城も里見勢の正木時茂が攻略するとそのまま城主となっており、さすがに対立していた真里谷信応も旧領回復にならず真里谷一族存亡の危機だと気が付いたようです。
そのため真里谷信応は椎津城の真里谷信政と協調し、里見氏から離反して対抗する行動を取りはじめました。
しかし、1552年11月4日、椎津城は陥落して真里谷信政は自刃。
3日後には真里谷信応も自害に追い込まれています。
こうして真里谷氏(上総・武田氏)は滅亡しました。
※庁南城の武田豊信となる庁南・武田氏は存続しています。

その後、造海城(百首城)は、北条勢に占拠されるなどしましたが、1567年、里見義弘と正木憲時から佐貫城を出撃し、三船山の戦いにて大敗した北条勢は房総半島を諦めました。
内房・正木氏の正木淡路守が造海城(百首城)に入って里見水軍を指揮しています。

なお、里見義堯が1574年に久留里城にて死去すると、その遺言により安房国は養子の里見義頼上総国は嫡男・梅王丸(里見義重)へと分割譲渡されます。
これがまた火種でして、家臣らも不満を覚え、家督をめぐる内紛となりました。
1578年、里見氏と後北条氏が和睦すると、上総・百首城には里見義頼の子である正木義断(正木淡路守義断)が入りました。
内乱では安房・勝浦城の正木頼忠が里見義頼に味方するなど正木氏も両派に分かれており、造海城の正木源七郎(正木淡路守)は梅王丸を擁したため、安房・館山城の里見義頼に攻められ降伏したとあります。

1589年、里見義康が正木淡路守に宛てた朱印状に「安房からの廻船を必ず百首湊に寄港させるとの話と、その際に税などは徴収しないよう命じた内容」があります。

交通アクセス

造海城(百首城)への行き方・交通アクセスですが、JR竹岡駅より約1700m、徒歩25分で登城口と言う感じです。
その造海城の登城口は、燈籠坂大師になるようです。
観光スポットにもなっている、手掘りの「燈籠坂大師の切通しトンネル」(下記写真)を抜けて行きます。

燈籠坂大師の切通しトンネル

下記は、燈籠坂大師の切通しトンネルを抜けて反対側から撮影した写真になります。
脇に燈籠坂大師へ登る階段があるのが見えると存じますが、そこが、造海城への登城口となります。

造海城の登城口

奥には駐車場はありません(方向回転も難しい)ので、クルマは素直に当方の地図にて示している駐車場に止めてないと後悔します。
城址は整備されていないため、遺構などよく残っているようですが、それだけ危険なところもあるようですので、どうぞご注意願います。


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駐車場の場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

峰上城からやってきて、次は上総・金谷城の撮影に向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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