岩手県

陸奥・衣川柵(並木屋敷) 安倍頼時と安倍貞任 前九年の役

衣川柵(並木屋敷)




陸奥・衣川柵(ころもがわのさく)は、岩手県奥州市にある古い時代の館跡です。
この場所(城跡)は、色々な別名がありまして、並木屋敷小松館、単に「館」とする場合もあります。
どうやら、衣川柵と呼ばれたのは後の話でして、最初は並木屋敷と言っていた模様です。
平泉には衣川館と言う屋敷跡(城跡)もありますが、衣川柵(並木屋敷)と、衣川館は離れており、別物と考えて良いです。
ややっこしいですね。
私も、把握するのに、相当苦労しました。





最初の築城は不明ですが、1045年頃に安倍頼時が築いたとされます。

安倍頼時(あべ-の-よりとき)は、陸奥国奥六郡を治めた平安時代の武将であり俘囚長です。。
俘囚(ふしゅう)と言うのは、ヤマト政権に抵抗せずに味方した蝦夷(えみし)・先住民族のことを言い、そのリーダーになっていたのが奥州・安倍氏と言う事になります。

衣川柵(並木屋敷)

安倍頼時は、東北にて絶大な権力を持つに至り、この平泉の並木屋敷を本拠と申しましょうか、政庁としたようです。
そのため、城郭としての防御性には優れておらず、館として機能したいたと考えてよいでしょう。

安倍頼時(安倍頼良)は、やがて、朝廷に対して、税金を納めなくなり、独立するそぶりを見せるようになります。
そのため、1051年、朝廷は、公家の藤原登任(ふじわら-の-なりとう)を陸奥守に任じて、数千の軍勢を派遣しました。
この動きに対して、安倍氏は俘囚らを動員して、逆に衣川を越えて国衙領へ侵攻しました。
そして、鳴子になる、鬼切部の戦いにて、朝廷軍と秋田城介・平重成の連合軍から勝利を収めたため、前九年の役の発端となります。

敗れた朝廷側も威信をかけて、後任には武士である源頼義(みなもと-の-よりよし)に、陸奥守と鎮守府将軍を兼任させると多賀城に入れました。
すると、安倍頼時(安倍頼良)は、降伏・恭順の意思を示したと言います。
自らの諱である「頼良」(よりよし)が、将軍たる「頼義」(よりよし)と同じ発音では恐れ多いとして「頼時」と名を改めました。
上東門院・藤原彰子の病気平癒祈願の大赦もあり、安倍氏は罪を許されています。





こうして、一見、和平が訪れたかに見えましたが、1056年、源頼義が任期満了で京に戻る直前に阿久利川事件(あくりかわじけん)が起こります。
鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に帰ろうとして阿久利川(磐井川?・一迫川?)畔に野営した際、源頼義のもとを密使が訪れて、部下の藤原光貞、藤原元貞が夜襲を受けて、人馬に損害が出たと言う報告が入りました。

源頼義は、藤原光貞を呼び出して詳しく聞き、犯人の心当たりを訪ねます。
すると、藤原光貞は、安倍頼時の長男・安倍貞任が、自分(藤原光貞)の妹を妻にしたいと願ったが、いやしい俘囚にはやらぬと、拒んだのを逆恨みした、襲撃以外には考えられないと、答えました。

これを聞いた源頼義は、真相を確かめることなく、安倍頼時に命じて、息子の安倍貞任を出頭させて、厳罰に処そうとしました。
当然、安倍氏はこれを拒否することになり、挙兵したため、源頼義に、安倍頼時追討の宣旨が下ることになりました。

源頼義は、安倍氏側でありながらも、朝廷に属していた平永衡に、内通の疑いを感じると殺害します。
これが引き金となり、同じく朝廷側に従っていた藤原経清は、安倍氏が多賀城を奇襲すると言う噂を流し、源頼義が急いで多賀城に引き上げたのを見て、兵800を率いて安倍氏の陣営に加わりました。

争いは一進一退となりましたが、源頼義は気仙郡司の金為時を派遣して、津軽の俘囚・安倍富忠らを調略して味方にし、奥州・安倍氏を挟み撃ちを計画します。
そのため、1057年、安倍頼時は、自ら津軽に向かって、翻意させようとしましたが、仁土呂志辺にて安倍富忠の伏兵から攻撃を受け、流れ矢にて深手を負い、衣川柵に戻る途中の鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)にて死去しました。
安倍頼時の跡は、安倍貞任が継ぎます。





安倍貞任(あべ-の-さだとう)は、弟・安倍宗任とともに一族を率いて戦い続け、河崎柵にて籠城すると黄海の戦い(きのみのたたかい)で朝廷軍に大勝して有利な立場となります。
万策が尽きた源頼義は、中立の立場を取っていた、大鳥井山(秋田県横手市)の清原光頼(きよはら-みつより)に、奇珍の贈物を何度も送り、臣下の礼の形を取ってまで、参戦を懇願しました。
そして、安倍氏と並ぶ強大な勢力を持つ出羽・清原氏は、弟・清原武則(きよはら-の-たけのり)を総大将にして陸奥へ派遣しました。

これにより朝廷軍は1万、安倍勢は3000と形成は逆転し、安倍氏の重要拠点である石坂柵(一関)・小松柵(平泉・小松館)・衣川柵(平泉・並木屋敷)・鳥海柵(金ヶ崎・弥三郎館)など次々に陥落して北へと逃れます。
1062年9月17日、盛岡の厨川城にて、厨川の戦いとなりましたが、安倍貞任は敗れました。

巨漢だったと言う安倍貞任は、深手を負った状態で捕縛され、源頼義の面前に引き出されたところで、息を引き取ったとされます。享年44(享年34とも)
首は丸太に釘で打ち付けられて京に送られています。
藤原経清も捕まりましたが、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで、斬首されたと言います。
こうして、奥州・安倍氏は滅亡し、前九年の役は終わりました。
弟・安倍宗任は投降し、伊予国に配流され今治で3年過ごしたあと、筑前大島もしくは太宰府に移されています。
この安倍宗任の子孫は、肥前の松浦一族と姻戚関係となり、松浦氏となりました。
安倍晋三・内閣総理大臣は、この九州に渡った安倍宗任の子孫の娘が、平知盛の子・平知貞に嫁ぎ産んだ子の末裔だとしています。





安倍頼時の娘・有加一乃末陪(ありか-いちのまえ)は藤原経清の妻でしたが未亡人となり、敵方であった清原武則の子・清原武貞に再嫁させられました。
同族の安倍頼清の娘も清原武則の妻となっています。
有加一乃末陪は、1056年に、奥州藤原氏の祖である藤原清衡を産んでおり、連れ子として藤原清衡は、清原武貞の養子となりました。
その結果、1083年、跡目争いの後三年の役となり、清原氏の所領は生き残った藤原清衡が継承することになり、これが奥州・藤原氏の始まりとなります。
当初は、水沢江刺の豊田館を本拠としましたが、のち平泉に移ると中尊寺や毛越寺を造営し、柳之御所を居館としました。

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コメント

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  • コメント (1)

    • 山田 久夫
    • 2020年 9月 03日

    九世紀終わり頃に刈田郡以北の蝦夷は華風に馴染まず、朝廷は律令支配を放棄してしまいました。多賀城跡とされた遺跡が平安時代末期以前一世紀以上前二廃絶されたのは律令放棄のためです。十一世紀初頭に刈田郡以北は賊地に帰し境界に関門がつくられました。所謂、勿来の関です。いわきの勿来の関は江戸時代の学者が推定したもので本当の勿来の関とは全く関係ありません。勿来の関は下碑の関ともよばれました。諸人の通行は禁断でした。
    東鏡文治五年八月の条に多賀国府の存在が記されていますが、発掘調査の結果、そのようなものの存在は確認されていません。存在せぬ多賀国府から平泉に頼朝が行った事がきされています。虚構故そのような荒唐無稽な事をきしているのです。
    陸奥守藤原秀衡が勤仕した陸奥国衙は信夫郡に在りました。陸奥守の館は国衙から百丁程の所にあったのです。
    藤原基衡も陸奥国衙の官人目(さかん)でした。公田(国衙領)押領で陸奥守として下向した藤原師綱に糾弾されました。
    陸奥国衙の官人の館が刈田郡以北の奥地に存在する道理がありません。平泉藤原氏は虚構です。藤原秀衡の居館は陸奥国信夫庄鳥和田村にあったのです。文治二年の頼朝奏上並びに陸奥国信夫庄鳥和田村地頭職譲り状が根拠です。

城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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