埼玉県

秩父氏館の解説~平将恒(秩父氏の祖)をわかりやすく説明してみた

秩父氏館

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秩父氏館とは

秩父氏館 (ちちぶし-やかた) は、埼玉県秩父市下吉田にある丘城で、別名は武蔵・吉田城、鶴ヶ窪城。
ちょうど、吉田側が蛇行する丘の上にあると言う印象だ。

平安時代に平将恒が武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。

秩父氏館は、案内板や秩父氏館の標柱、秩父氏館跡の碑などが秩父市立吉田小学校のグランドの中にある。
平日であれば、きちんと許可を得て見学はできるようだが、学校が休みの日(日曜など)は許可を得るのが困難なようだ。
今回は、平日の夕方になってしまい、ちょうど下校時間とも重なってしまい教職員さんも忙しいと察し、中に入れさせて頂くのは自粛・断念した。
吉田保育園の南側にある駐車場(吉田こども園の駐車場?)手前にて遠景撮影に留めさせて頂いている。

秩父氏館

お迎えのクルマも多かったようなので、写真1枚だけ撮影して退散させて頂いた。

近くに小暮城もあるが秩父氏との関連性は不明である。

そもそも秩父氏は桓武天皇の孫である平高望の6男・平良文を祖とする桓武平氏良文流とされる。
平良文(たいら の よしふみ)は、藤沢の相模・村岡城を本拠にしたと考えられ、村岡五郎と称した。
その3男・平忠頼は、平将門の娘・春姫を妻にし、その長男の平忠常千葉氏の祖、次男の平将恒は秩父氏(秩父平氏)の祖、3男の平頼尊の子孫は相模・中村氏を称し、更には、河越氏、江戸氏、渋谷氏などに分かれていったと言う事になる。
三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏なども、平良文の流れだ。

平将恒

平将恒 (たいら の まさつね) は、平安時代中期の武将で1007年頃に生まれたと考えられる。
父は武蔵介・平忠頼。
母は平将門の娘・春姫。

平将恒の正室は武蔵武芝の娘で、継室は平忠通の娘。

1023年、武蔵介・藤原真枝が反乱を起こすと、朝廷から平将恒は征伐を命じられ、相模国と上総国の兵を率いて戦った。
豊島の戦いにて敗れた藤原真枝は自害。
この功績で平将恒は駿河国益頭郡・武蔵国豊嶋郡・上総国埴生郡・下総国葛西郡に領地を得た。
<注釈> 藤原真枝という人物についてはよくわかっていない。

こうして平将恒は秩父郡中村郷を本拠として秩父氏を称し秩父氏の祖となった。
<注釈> のち丹党からも中村郷(上中村氏館・下中村氏館)を本拠にした秩父・中村氏がいる。

平将恒は、1057年、俘囚の安倍頼良が兵を挙げた前九年の役に出陣した際、討死したとされる。享年51。

嫡男・平武基(秩父武基)は秩父別当となり、次男・豊島武常は武蔵国豊島郡の平塚城(豊島氏館)に入った。
3男は小山田常任ともあるが、小山田氏の祖としては秩父重弘の子・小山田有重となっている。

秩父重綱の代には、武蔵国国司の代理職「武蔵国留守所総検校職」を認められ、武蔵国のトップとして君臨した。
こうして秩父氏は畠山氏、小山田氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などの多くの氏族を輩出し「秩父党」と呼ばれる武士団を形成している。

秩父氏館(武蔵・吉田城)では、平武基、平武綱、秩父重綱、秩父重弘、畠山重能と5代にわたって続いた。

<注釈> 横山党・横山隆兼の娘が秩父重弘に嫁ぎ、畠山重能・小山田有重を産んだ。

秩父重弘の長男が畠山重能であったが、秩父重弘の弟・秩父重隆が家督を継いだ。
そのため、畠山館の畠山重能は、源義朝・源義平と結び、大蔵合戦(大蔵の戦い)で、叔父・畠山重隆とその婿・源義賢を討った。
その源義賢の幼子が駒王丸で、密かに斎藤実盛が助けて木曽に落ち延びると、木曾義仲となった訳だ。

交通アクセス

場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
徒歩でも自転車でもナビとしても使えるのでご活用頂ければ幸いだ。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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