相模・村岡城
相模・村岡城(むらおか-じょう)は、神奈川県藤沢市村岡東にある平山城。
別名は高谷砦とも言う。
現在は「村岡城址公園」として整備されており、遺構は残されていないが、城址碑と案内板がある。
最初の築城は古く、平安時代に平良文(村岡五郎)が築いたとされる。
平良文とは
桓武天皇の孫である平高望の6男が平良文(たいら の よしふみ)で、仁和2年(886年)3月18日に京で生まれたとされる。
母は藤原範世の娘(藤原師世娘とも)
別名は村岡五郎、邑岡五郎。
平安時代の898年、父・平高望が上総介に任官して下向。
長男・平国香、次男・平良兼、三男・平良将も赴いた。
そして、平高望の親子は任期満了となっても帰京せず、常陸国・下総国・上総国を開墾して支配地を拡大。
常陸の源護や、下総の犬養春枝などとも婚姻関係を結び、勢力を拡大させた。
側室の子であった平良文は京に残っていたが、延長元年(923年)36歳のとき、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受け下向。
相模の盗賊を退治したとされる。
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その後、相模国鎌倉郡村岡(神奈川県藤沢市村岡)を本拠として母と共に住み、村岡五郎を称したとされる。
ただし、平安時代にこんな高台に屋敷を構えたとは考えにくい。
平時は麓に住んでいたと考えられるため、平安時代から村岡城が「城」として機能していたのには疑問を感じる。
しかし、相模では鎌倉時代よりも歴史が古い史跡になっていることには間違いないのだが、すでに住宅開発されており調査が少ないのがもったいない。
なお、領地は武蔵国熊谷郷村岡(埼玉県熊谷市村岡)や、下総国結城郡村岡(茨城県下妻市)にもあったとされるが詳しい史料はない。
妻は上野国豪族・大野茂吉の娘とされる。
相模・村岡氏からは桓武平氏良文流として鎌倉党の梶原景時や大庭氏・長江氏・長尾氏、三浦党の和田義盛・三浦義村・岡崎義実や安西氏・蘆名氏などを輩出した。
930年、大野茂吉の娘との間に平忠頼(たいら の ただより)が誕生し、村岡次郎と称したとある。
932年?にも大野茂吉の娘が平忠頼(たいら の ただより)を産んだが、その他にいた長兄・平忠輔が亡くなると、平忠頼は養子となって遺領を相続した。
939年、陸奥守の平良文は鎮守府将軍に任じられて、東北に赴いて反乱を鎮圧。
鎮守府を置いた胆沢城にて指揮。
天慶3年(940年)5月、平良文は関東に帰国している。
晩年は、千葉県香取市の阿玉にて過ごしたようで「伝平良文館」がある。
952年、平良文は67歳で死去したとも。
また、平良文は平将門の叔父に当たる。
家督を継いだ村岡五郎(平忠頼)は、平将門の次女・春姫を正室にしていることから、平良文と平将門の関係はよかったものと推測できる。
この平忠頼は房総平氏の祖となって上総氏・千葉氏へ発展。
その派生で秩父氏、河越氏、江戸氏、相模・中村氏、渋谷氏などが出ている。
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相模・村岡城のその後だが、村岡氏の本流は房総に移ったものの、近くの二伝寺には、平良文から平忠光、そして平忠通と3代の塚(三浦氏始祖三代)があるようだ。
平忠光(たいら の ただみつ)は、早世した長兄・平忠輔の養子となって遺領を相続した。
そのため、本流から外れて、相模・村岡荘を継承したようだ。
また、平忠光の子である碓井貞光(うすい さだみつ)は、渡辺綱を筆頭とする源頼光四天王の一人になっている。
平忠通(たいら の ただみち)に関しては不明な点が多い。
嫡男・村岡孝輔の兄弟が、三浦氏・鎌倉氏を称して、それぞれ分家した。
鎌倉氏が発展したことで、村岡氏は衰退した模様だ。
鎌倉景政が死去すると、鎌倉党は一族の大庭氏や梶原氏が権力を強めている。
鎌倉時代には梶原景時が活躍している。
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1333年、鎌倉幕府打倒へと挙兵した新田義貞が、鎌倉突入を試みた際に村岡城近くで合戦・激戦になった模様だ。
戦国時代となって玉縄城が築かれると、高谷砦として整備されたものと推測できる。
見学する場合、二伝寺砦、玉縄城とセットでどうぞ。
交通アクセス
相模・村岡城への行き方ですが、JR東海道本線・大船駅から神奈川中央交通バスに乗車して「渡内第三会館前」バス停下車し、徒歩約8分。
駐車場はない。
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