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常陸・鹿島城の歴史解説~鹿島政幹・鹿島義幹など鹿島氏の滅亡まで

常陸・鹿島城

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常陸・鹿島城

常陸・鹿島城(かしまじょう)は茨城県鹿嶋市城山にある平山城で、別名は常陸・吉岡城。

最初の築城としては平安時代末期に鹿島政幹が築いたとされる。
諸説あるため正しいとはもちろん申し上げられないが、わかっている範囲でご紹介してみる。

鹿島政幹

鹿島政幹(かしま まさもと)は、平安時代末期の武将で鹿島成幹の3男。
鹿島氏は桓武平氏国香流大掾氏(平高望平国香の末裔)の一族。
平国香の子・平貞盛藤原秀郷の協力を得て平将門を倒すと、その子・平維幹は、多気山城を築いて常陸大掾を継いだ。
その曽孫・平清幹が吉田に住み、父・鹿島成幹(平成幹、鹿島三郎成幹、大掾成幹、吉田成幹)は鹿島郡の郡司となって常陸・吉田館(水戸)から移ったとされる。

常陸・鹿島城

1109年、八幡太郎・源義家のあと、河内源氏の家督を継いだ3男・源義忠を、源義光の命を受けた父・鹿島成幹が暗殺する。
口封じのため、父・鹿島成幹は大津の園城寺にて僧侶・快誉により生き埋めになった。
そのため遺領が子の徳宿親幹、神谷戸保幹、鹿島政幹、林頼幹に分配されたと言う事になる。
鹿島政幹は、宮本郷粟生に住んだが、のちに鹿島神宮の西にある宮中の吉岡に城を築いた。

1180年、源頼朝が挙兵すると、金砂城の戦いの頃、鹿島政幹は子の鹿島宗幹に1000騎を率いさせて鎌倉勢に味方している。
その鹿島宗幹と弟・鹿島弘幹は、源義経と屋島の戦いにも参じたが討死した。
この功績もあり、1181年、源頼朝は鹿島政幹を鹿島総追捕使に任じ、鹿島神宮神領の警察権を任せた。

1189年、奥州攻めの際には、千葉常胤八田知家の軍勢に、常陸の多気義幹・鹿島頼幹・真壁長幹(まかべたけもと)などが加わった。
1190年、源頼朝が上洛した際に、随兵33番に豊田義幹、鹿島政幹、小栗重広の名が見られる。
家督は子の鹿島胤幹が継承した。

なお、常陸大掾職を継いだ常陸平氏は、鹿島神宮の大使役(鹿島大使)を職掌としており、行方・島崎・真壁・小栗・吉田・鹿島・馬場の7家7郡地頭が交代で年に1回「お祭り」(儀式)を担当した。
7年に1回ほど順番が回ってくる計算で、費用負担は戦国時代まで続き、重くのしかかったようだ。


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鎌倉幕府が滅亡した南北朝時代になると、鹿島幹寛・鹿島幹重の親子は、本家筋の大掾氏と北朝の足利尊氏に属した。
そして、南朝北畠親房が入った神宮寺城の戦いでは、佐竹義篤の軍勢と一緒に攻撃参加している。
そのため、室町幕府からは鹿島惣大行事職を世襲することが許された。

鹿島義幹

鹿島義幹 (かしま-よしもと) は戦国時代の常陸・鹿島城主だが生没年は不明。
1512年、木内右馬頭との下総・米野井城攻めで討死した兄・鹿島景幹のあとを継いで当主になった。
しかし、玉造源三(塚原卜伝の門人)を重用して鹿島城の大改修を始めたこともあり、領民に重税などの負担を課し、本家筋で常陸・府中城の大掾忠幹、水戸城主の江戸通雅・江戸通泰、常陸・島崎城の島崎利幹らの援軍を得た鹿島氏の重臣たち(吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之)が反乱を起こしたとある。

常陸・鹿島城

実際にはまだ若かったと考えられる鹿島義幹に対して、周辺の脅威から自分たちの領地を維持できないと考えた家臣(鹿島一族が多い)らが謀反を起こしたと言えよう。
3000の兵が常陸・鹿島城を囲み、700の手勢では勝てないと判断した東右衛門大輔・林左京亮ら家臣に進言を受けて、鹿島義幹は下総国の千葉氏を頼り、須賀山城へ逃れたようだ。
鹿島氏の重臣・松本備前守と弟・松本右馬允政元らは、大掾高幹の弟・鹿島通幹を、鹿島景幹の娘と結婚させて鹿嶋氏に養子として迎え当主に据えた。

下総に逃れていた鹿島義幹、1524年、常陸・鹿島城奪還を目指して、高天ヶ原の戦いにて鹿島通幹、吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之らに挑むも討死した。
この合戦には剣豪で名高い塚原卜伝も加わっていたと言う。

なお、経緯は不明だが、討死した鹿島義幹の孫・鹿島治幹(鹿島治時)は佐竹氏の力を借りたようで鹿島家当主として復帰している。
1565年、鹿島治時は一時、土浦城も手に入れたようだ。
1566年、鹿島治時(鹿島治幹)が病没すると、鹿島家は再び内紛となる。
家督は弟・鹿島氏幹が継いだが1569年「鹿島義清の乱」が発生し、千葉冨胤の支援を受けた鉾田館主・鹿島義清(鹿島治時の3男)・烟田忠幹(かまたただもと)と対立した。
鹿島義清、烟田忠幹勢は敗退したが鹿島氏幹が家臣の島前某に謀殺されたので、鹿島義清(かしま-よしきよ)が家督を継承した。
しかし、1579年、鹿島義清を鹿島治時の5男・鹿島貞信が殺害する。
江戸重通から攻撃を受けた鹿島貞信と弟・鹿島清秀は下総へ落延びたが、江戸重通の支援を受けた鹿島通晴(鹿島治時の7男)が鹿島城に入った。

常陸・鹿島城

鹿島通晴(かしまみちはる)は、1584年、下野・沼尻の戦いにて佐竹義重に従って北条勢と戦い戦功を挙げている。
しかし、1586年、鹿島貞信・鹿島清秀勢は国分胤政(下総・矢作城主)の支援を受け、鹿島城を攻撃すると鹿島通晴を敗走させ、鹿島貞信(鹿島治時の5男)が鹿島城に復活した。
1587年、鹿島貞信は烟田館の戦いで江戸重通の家臣・田山市正勢と戦い田山市正を討ち取ったが、1588年、弟・鹿島清秀に謀殺されている。

と言う事で1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際の鹿島城主は鹿島清秀(鹿島治時の6男)となる。
鹿島清秀(かしまきよひで)は、佐竹義宣に従っていた。

1590年4月下旬、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、佐竹義宣が常陸・下総・下野の諸将を連れて小田原に参陣。
佐竹義宜は一族の佐竹義久・佐竹義憲・佐竹義尚、宍戸四郎、太田景資、額田氏、島崎義幹、長倉義興、真壁房幹、茂木治良、木場義宗(常陸・小田城)、千本氏を伴って臣下の礼をとったが、鹿島清秀は参列者に選ばれなかったと推測できる。
佐竹義宣は小田原に参じなかった江戸重通や大掾氏を攻め滅ぼしている。
そして1591年、佐竹義重・佐竹義宣は「南方三十三館」と称された鹿島・行方の大掾氏一族を排除する。
鹿島城主・鹿島清秀をはじめとした、烟田城・玉造城・行方・手賀・島崎城らの一族を常陸・太田城の梅見に誘い一気に謀殺。

この報せを受けた常陸・鹿島城では、鹿島清秀の妻と三家老らが籠城。
佐竹税は町田備中守を大将として諸城は次々と陥として鉾田から鹿島城へ進軍して大砲を撃ちこんだ。
常陸・鹿島城は2週間耐えたと言う話もあるが、落城すると鹿島清秀の妻は自害。
鹿島清秀の一子・伊勢寿丸(鹿島幹連)は下総の大倉に逃れた。

関ヶ原の戦いのあと佐竹氏が移封となると、徳川家康に鹿島家の再興を嘆願。

伊勢寿丸(鹿島幹連)は200石となって鹿島惣大行事家となって、常陸・鹿島城の一角に住んだ。
以後、鹿島氏は鹿島神宮の三要職のひとつとして家名を残している。


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千葉氏同様に鹿島氏も一族が多すぎるため、権力争いから内紛が絶えず発生しており、その都度周辺勢力に頼るしかなく、戦国大名化することができなかったと言う印象がある。
それを考えると、北条早雲のようによそからやってきて占領したほうが、統治しやすいの?かもと感じる。
一方で、同じ常陸の武将でも常陸・小田城の小田氏治は、家臣に裏切られると言うよりは逆に助けられて何度も復帰しているのでおもしろい。

昭和63年(1988年)、後裔の鹿島家の協力があり、本丸跡が鹿島城山公園として開園。
二の丸跡には茨城県立鹿島高等学校がある。

交通アクセス

鹿島神宮駅から約600m、徒歩10分程度で本丸と近い。
本丸が公園の無料駐車場となっており、東側から大きな空堀を越えてクルマで登って行ける。
ただし、アプローチの道路は1.5車線で狭めの為、対向車に注意。
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
道路が狭めの為、お気をつけて訪問して頂きたい。

もちろん、鹿島神宮とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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