東京都

石浜城 東京の隅田川沿いにある千葉氏の城跡

石浜城




石浜城(いしはま-じょう)は、東京都荒川区南千住にある平城で、隅田川の脇にあります。
当然、隅田川を利用した水運、東京湾の海運も行っており、隅田川の渡し船も出ていたようですので、交通の要所だったのでしょう。
しかし、隅田川じたいも流れを変えたり、堤防工事などを行ったため、今では、石浜城跡は消滅しています。
また、河川敷工事などで失われていることから、石浜城の場所じたいも諸説あります。
現在ある、石浜神社の場所ともされていることから、今回、写真だけ撮影して参りました。

この石浜より南には、浅草寺江戸城こそありますが、他に城跡などはないです。
そのため、戦国時代頃まで、石浜は、まさに、古利根川の河口で、ほとんど浅瀬になっている、海も近かったのでしょう。





石浜城の最初の築城としては不明ですが、江戸氏の一族・石浜氏の本拠があったとされます。

南北朝時代の文和元年(1352年)、駿河の薩埵峠の戦いにて、鎌倉足利直義を撃破した足利尊氏でしたが、新田義貞の遺児・新田義興・新田義宗が、脇屋義治や北条時行らとともに、上野国で挙兵します。
利尊氏は、足利基氏、畠山国清、仁木頼章、結城直光、宇都宮氏綱、河越直重、江戸長門らで迎撃し、人見ヶ原の戦いなどになりますが、敗れます。
このとき、足利勢は、石浜城まで撤退して、勢力の回復を図り、その後、勝利して、捉えた北条時行を処刑するなどし、南朝勢の反乱を鎮めました。

石浜城

室町時代になると、1456年、鎌倉公方足利成氏の命を受けた水海城主・簗田持助が、国府台城(市河城)主の千葉実胤(千葉兼胤の孫)を攻撃します。
敗れた千葉実胤は、鎌倉公方に対抗していた上杉持朝を頼り、以後、石浜城を拠点としました。
弟の千葉自胤も赤塚城に逃れたとされています。
扇谷上杉家は、翌年には、太田道真・太田道灌に命じて、河越城、江戸城、岩槻城と改修・整備も行いました。

その後、下総千葉氏の宗家(千葉介)は、岩橋輔胤が千葉氏を称するようになり、その子・千葉孝胤が、千葉氏当主となっていますが、赤塚城の千葉自胤が石浜城主となり、室町幕府から千葉氏当主として認められました。
その後、下総・臼井城を落とすなど攻勢にも出ましたが、千葉輔胤・千葉孝胤を崩すことはできず、武蔵千葉氏として石浜城の小勢力となり残りました。
南総里見八犬伝にも登場してくる城跡です。

石浜城

戦国時代に入ると、小田原城の北条家に従っており、玉縄城主・北条氏繁の4男が婿入りしたようで、千葉直胤(ちば-なおたね)と称しています。
しかし、千葉家の重臣・木内宮内少輔や宇月内蔵助らが、北条家と対立したため、千葉直胤の責任を問われたのか?、北条氏政の直轄地となったもようです。

そのあと、1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて、廃城になったと考えてよいでしょう。





石浜城への交通アクセス・行き方ですが、JR常磐線・南千住駅から京成バスにて「南千住清掃車車庫バス停」にて下車し徒歩約4分です。
駐車場は、隅田川の堤防沿いの道路わきに、石浜神社の参拝者用駐車場があります。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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