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河越館 (川越館跡)【河越重頼の屋敷】河越直重の武蔵平一揆の乱

河越館

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河越館とは

河越館(かわごえやかた)は、埼玉県川越市上戸(うわど)新田屋敷にある、標高20mの館跡(平城)で、国指定史跡になっています。
別名は、鯨井城、上戸城、河越城、上戸陣所と言い「河越館跡史跡公園」として整備・保存が行われています。
鎌倉街道が通り、外堀は、入間川と繋がっていたとみられ、荒川を通じての水運も機能していた模様です。
最初の築城としては、平安時代末期の武将・河越能隆(かわごえ-よしたか)ともされます。

河越館

河越能隆は、武蔵国留守所総検校職(むさしのくに-るすどころ-そうけんぎょうしき)と言う、武蔵の官人・秩父重隆の嫡男です。
この秩父氏は、武蔵での最大勢力であり、武蔵・大蔵館を本拠にしていたようです。
その嫡男が河越能隆ですが「葛貫別当」となって、葛貫能隆(くずぬき-よしたか)とも称して、住まいを与えられていたようです。
しかし、1155年、源義平が、源義賢(木曾義仲の父)の拠点にもなっていた大蔵館を襲撃し、父・秩父重隆も討死し、以後、秩父氏の実力者は畠山重能となりました。
そのためか、葛貫能隆(河越能隆)は、葛貫へと退去したようで、その後、嫡男・河越重頼と共に土地開発した、河越館(川越市上戸)を新拠点にした模様です。

河越館

源頼朝との関係

河越重頼(かわごえ-しげより) は、1156年、保元の乱にて、弟・師岡重経と共に、源義朝に味方しています。

1159年、平治の乱となり、源義朝が平清盛に敗れ、遺児・源頼朝が伊豆に流罪となります。
源頼朝の乳母・比企尼は、夫・比企掃部允と共に、京から領地の武蔵国比企郡に下ると、河越重頼は比企尼の次女・河越尼を妻にしました。
比企尼は、伊豆で暮らす源頼朝に、約20年間、米を送るなど経済支援をしており、娘の嫁ぎ先である安達盛長伊東祐清も、流罪となっている源頼朝に仕えました。


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1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵すると、石橋山の戦いには間に合いませんでしたが、同じ秩父一族・畠山重忠の要請に応じて「平家側」として、江戸重長らと相模・衣笠城を攻撃し、源頼朝に協力した三浦義明を討ち取りました。(衣笠城の戦い)。
その後、源頼朝が上総広常千葉常胤を勢力に付けて武蔵に入ると、足立遠元・葛西清重が加わりましたが、その葛西清重の説得にて、秩父氏一族である畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも、平氏から源氏に鞍替えして、以後、源頼朝に従いました。

こうして、源頼朝の信頼を得たことから、1182年に、源頼朝と北条政子の嫡男・源頼家が、鎌倉の比企能員屋敷にて産まれると、河越重頼の妻(比丘尼の次女・河越尼)が呼ばれて、乳母として最初の乳を含ませる儀式を行っています。
また、弟・師岡重経が、邪気を払う鳴弦の儀を担当しました。

1184年、源範頼源義経らを大将に、源義仲(木曽義仲)の討伐に鎌倉勢が京へ向かいましたが、河越重頼は嫡男・河越重房と共に参じました。
しかし、源頼朝が朝廷から検非違使の任官を受けた際に、弟・師岡重経も兵衛尉となったため、源頼朝の怒りを買う事になります。
ともあれ、源頼朝は、河越重頼と河越尼の娘・郷御前(さとごぜん) を、河越から京に上洛させています。
この時、河越氏からは、河越重頼の家来2名と、郎党30数名が従って京に入ったとされ、郷御前は、在京していた源義経の正室となりました。


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その後、源義経が、後白河法皇から源頼朝追討の院宣を受けると、源義経と源頼朝の関係は崩れます。
そのため、源義経に近かった、弟・師岡重経も、鎌倉から敵視され、河越氏は、源義経の縁戚であることからも、伊勢国香取5カ郷の所領を没収されて、大井実春に与えられました。
その他の領地も、河郷重頼の母預かりと裁断が下り、河越重頼の娘の嫁ぎ先である下河辺政義も、連座して所領没収となっています。
そして、河越重頼は嫡男・河越重房と共に誅殺され、比企尼の次女・河越尼は出家しています。
武蔵国留守所惣検校職は、畠山重忠が継承しました。

1187年、河越重頼を誅殺したことを「憐れである」として、源頼朝は、河越荘を河越尼に安堵しています。
その後、河越荘は、河越重頼の次男・河越重時が継ぎました。
河越重時 (かわごえ-しげとき) は、1205年、畠山重忠の乱にて、弟・河越重員と共に、北条義時に従って、北条時房・和田義盛らと鎌倉から出陣し、二俣川の戦いにて、畠山氏を滅亡させています。
その後、武蔵国は、執権・北条氏が「武蔵守」を称しましたが、1226年、鎌倉幕府より武蔵国留守所総検校職が、弟・河越重員に戻されています。
これは、本来、秩父氏の直系である河越重時に、権力が集中するのを恐れたようで、以後、河越氏は、重時流と重員流の2流に分かれました。


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河越氏の滅亡

新田義貞の挙兵に加わり、鎌倉幕府を倒した河越館主の河越氏は、足利尊氏の弟・足利直義に従っており、1334年、鎌倉を守備する関東衆の筆頭に、河越高重(河越次郎高重)の名前があります。
1353年、関東統治のため、足利尊氏が4男・足利基氏鎌倉公方とすると、補佐する関東管領に足利一族の畠山国清が就任します。

しかし、1358年、足利尊氏が死去すると畠山国清と足利基氏の対立は激化し、1361年、畠山国清が伊豆で挙兵しますが、修禅寺城にて降伏すると、信濃国に追放されていた上杉憲顕が関東管領として復権します。
復権した上杉憲顕は、敵対勢力の削減を始め、1363年、河越直重は相模国守護職を解任されました。

そして、1368年、足利義満が元服したお祝いで、上杉憲顕が上洛した隙に、河越直重を中心として、武蔵平一揆の乱をおこします。
河越直重は、一族の高坂信重や江戸氏・高山氏・古屋谷氏、村山党の仙波氏・山口高清・金子家祐などと、河越館・大堀山城・大穴山館にて籠城し、更には江戸まで占領しました。
京にいた上杉憲顕は、室町幕府を味方に付けると、10歳の足利氏満を鎌倉公方として、河越館を攻撃しました。
敗れた河越直重は、伊勢に敗走する結果となり、有力な武蔵武士が没落し、河越氏は滅亡しました。


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その後、新たな城として、別の場所に「河越城」(川越城)を太田道灌が築きました。
1488年、関東では、長享の乱となりますが、上杉朝良の河越城 (※河越館ではない) を、関東管領・上杉顕定が攻撃するため、河越館跡に約7年も、上戸陣を構えたとあります。

その後も、河越館跡は、使われたようで、小田原城の北条家家臣・大道寺政繁の砦が、上戸にあったとも記録があります。

現在は、河越館跡史跡公園として、とてもよく整備されており、西側に土塁があるほか、毎年、鎌倉時代の流鏑馬を再現したイベントも行われます。
南側の常楽寺には大道寺政繁の宝篋印塔の他、新しい河越重頼・源義経・京姫(郷御前)の供養塔もあるようです。
河越重頼の墓があるのは養寿院となります。


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交通アクセス

河越館への交通アクセス・行き方ですが、東武東上線の霞ヶ関駅から徒歩15分となります。
無料駐車場は約50台分、未舗装でありますので、オリジナル関東地図にてポイントしておきます。
新しい公衆トイレも近くにあります。
ただし、アプローチの道路は、1.2車線と少し狭いです。
あわただしく訪問してしまったため、また、ゆっくりと訪れたいところです。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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