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武蔵・足利基氏館(旧足利基氏館跡)の歴史解説~鎌倉公方・足利基氏とは

武蔵・足利基氏館




足利基氏とは

足利基氏(あしかが-もとうじ)は、南北朝時代の武将で、足利尊氏の4男として、1340年に生まれました。
母は、正室の赤橋登子になります。
父・足利尊氏は、鎌倉幕府を倒して室町幕府を創設し、重要な鎌倉には嫡男・足利義詮を配置していました。
しかし、足利家の内紛で、1349年、観応の擾乱となると、隠棲した足利直義(足利尊氏の弟)に変わって、京にて政治を行うため、次期将軍になる足利義詮が、鎌倉から京に呼び戻されます。
そのため、代わりに鎌倉公方として京から下向したのが、足利基氏になりますが、まだ僅か10歳くらいでした。
幼い足利基氏を補佐した関東執事(後の関東管領)に、畠山国清や高師有のほか、山内上杉家の上杉憲顕がつけられ、と共に足利基氏を支えました。





ところが、京で高師直と足利直義による対立が発生すると、鎌倉でも足利直義に従っていた上杉重能が、高師直の配下に暗殺されたことで、上杉憲顕と高師冬(高師行の子)が対立します。

1351年、上杉憲顕は、鎌倉から出ると上野国に入って軍勢を整え、常陸で挙兵した子の上杉能憲と呼応して鎌倉を脅かしました。
高師冬(こう の もろふゆ) は、鎌倉から甲斐・須沢城に逃れましたが、諏訪直頼の軍勢に包囲され、自刃しています。
更に、足利直義を鎌倉に招こうとしたため、怒った足利尊氏は、上杉憲顕の上野守護と越後守護を罷免し、宇都宮氏綱に与えました。
経緯を簡単にご紹介しますと、宇都宮氏綱は足利直義を裏切って足利尊氏に味方した功績から、失脚した上杉憲顕に代わり、上野国と越後国の守護になったと言えます。
翌年1352年に、足利直義が死去したことで、乱は終わりましたが、上杉憲顕は信濃に追放されています。





なお、1531年、足利基氏は、武蔵の敵対勢力に対抗するため、入間川御陣を設けています。
この入間川御陣は、入間川御所とも言い、鎌倉の機能が、約9年間、移されており、足利基氏は入間川殿とも呼ばれています。
入間川御所があった際に、出先機関として、岩殿山にも館を構えたともされているようですので、それが、岩殿の足利基氏館跡なのかも知れません。

1358年、足利尊氏が没すると、江戸長門(江戸遠江守)、竹沢右京亮に命じて、南朝勢の新田義興を、多摩川・矢口の渡しで謀殺し滅ぼしています。
また、室町幕府2代将軍・足利義詮と、弟である鎌倉公方・足利基氏は、幼少時に執事として補佐してくれていた上杉憲顕を密かに越後守護に再任しました。
これに怒ったのは、当然、宇都宮氏綱で、上野国守護と越後国守護の返還を拒みました。

1361年、専横化して失脚し領国の伊豆へ逃れたていた畠山国清の修禅寺城を攻略すると、関東での政権を掌握。
翌年1362年、越後守護職に上杉憲顕を復帰させます。
1363年、関東執事に復職するため、越後から信濃経由で鎌倉に上杉憲顕が向かうと、宇都宮氏綱の重臣で、飛山城主である芳賀高名(はが たかな)は、上野・板鼻(群馬県安中市)にて、迎え撃ちます。
しかし、上杉勢が勝利し、芳賀高名(芳賀禅可)は、武蔵まで退却したようです。
この動きに、足利基氏は3000を率いて、鎌倉街道を北上したため、芳賀高名(芳賀禅可)は、嫡子・芳賀高貞と次男・芳賀高家ら800騎を派遣します。
そして、武蔵岩殿山・苦林野にて、苦林野合戦(苦林野の戦い)となり、芳賀勢は宇都宮へ敗走しました。





この合戦は規模が大きかったようで、追撃を受けたのか?、岩殿山でも戦闘があったようで、岩殿山合戦(岩殿山の戦い)と連戦になった模様で、芳賀高貞と足利基氏が戦っています。
結果的に芳賀勢は、宇都宮へ敗走しました。

岩殿・足利基氏館

この岩殿山合戦(岩殿山の戦い)の際に、足利基氏が、陣を置いたとされるのが、近くにある足利基氏館なのですが、すぐに下野へ兵を進めていますので、短期間使用の陣館と言う事になっています。
また、前述したとおり、入間川御所の出先機関として、使っていた可能性がありますが、単純に、もともと、地元豪族の館があったのを再利用した(改修した可能性はある)と考えてよいでしょう。
足利基氏館跡は、道路が狭く、駐車できなかったため、遠景だけ撮影させて頂きました。
細い道路から入れる脇道に、足利基氏館跡を示す、細い標柱が建てられています。

さて、関東での勢力を固めた足利基氏は、入間川御陣(入間川御所)から、鎌倉に戻り、関東10ヵ国を支配し、京都の将軍・足利義詮を助けました。
ちなみに、入間川御陣(入間川御所)があった場所は、よくわかっていないとの事ですが、狭山・清水八幡宮の付近とも、武蔵・柏原城(柏原氏館)とも言われているようです。





足利基氏は、1367年に死去。享年28。
短い生涯でしたが死因は「はしか」(麻しん)と伝わります。
遺命により、墓所は、鎌倉・瑞泉寺になっています。

正室・清渓尼(畠山家国の娘)が、1359年に産んでいた、足利氏満(あしかが うじみつ)が、2代鎌倉公方になりますが、まだ幼少だったため、幼少のため、京都から佐々木道誉が下向して、引継ぎ事務を担当しています。

交通アクセス

武蔵・足利基氏館への行き方です。
何回か通行したことがあるのですが、前述したとおり、対向車が来たら、おしまいの狭い1.0車線の道路沿いから入れます。
駐車場がないので、もし、クルマを止めるとしたら、西にある阿弥陀堂のところ(簡易トレイあり)の駐車スペースでして、そこから250m、徒歩3分で入口と言う事になります。
当方のオリジナル地図でも、ポイント致しております。

電車バスでの行き方・アクセスですが、東武東上線・高坂駅の西口から、川越観光自動車の鳩山ニュータウン・にっさい線「鳩山ニュータウン行き」バスに乗車して、物見山登山口バス停下車し、750m、徒歩10分になります。
バスの本数は、15分間隔くらいと、多いです。
高坂駅から歩くと、2.5km、約35分の距離です。
ここまで来たら、岩殿観音(正法寺)とセットでどうぞ。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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