茨城県

大宝城・大宝八幡宮の解説~下妻長政・下妻政泰の居城

大宝城

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大宝城

大宝城(だいほうじょう)は、茨城県下妻市大宝にある平城(丘城)で、国史跡に指定されています。

大宝城

現在、大宝八幡宮がありますが、その最奥部・最先端が、大宝城の本丸とされ、かつては鳥羽の淡海(大宝沼)で囲まれていたようです。
大宝城の城域には、大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)は、関東でも最古と考えられる八幡宮です。
そのため、大宝城の敷地内に、大宝八幡宮があると言う感じになっています。


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大宝元年(701年)に、藤原時忠が、常陸国河内郡(龍ケ崎市)へ下向の際に、筑紫の宇佐八幡宮(宇佐神宮)を勧請・創建したとされます。
701年と申しますと、飛鳥時代・文武天皇のときであり、ヤマト政権にて大宝律令が完成した頃になります。
その頃の藤原氏と言えば、中臣鎌足が669年の臨終の際に、天智天皇から「藤原性」を与えられたのが、藤原氏の始まりでして、藤原鎌足の次男・藤原不比等(ふじわら の ふひと)が、藤原氏始祖となります。
中臣鎌足(藤原鎌足)じたい、常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)の出身であるともされますが、当時は、まだ、藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗ることを、許されていたと考えられます。
しかし、藤原時忠なる藤原氏は不明です。

大宝城

藤原不比等の藤原房前(ふじわら の ふささき)が、確かに、巡察使となって東海道下ったようなのですが、大宝律令が年に公布されて、そして、703年に巡察使になった模様でして、僅かに年代が合いません。
藤原不比等は、天皇の側近であり、701年に大納言となっていますので、藤原京にずっといたと考えられ、関東に下向するような事は、考えられません。
と言う事で、大宝八幡宮を創建したと言う、藤原時忠が、屋敷も構えた可能性を考えていたのですが、存在すら、裏付けできるような材料は見つかりませんでした。
本当に、藤原時忠が創建したと言う事であれば、大宰府に関係した人物だったのかも知れません。


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平安時代には、平将門も戦勝祈願で何度か訪れているようですが、935年頃の頃と考えられます。
近くの南側には常陸・大串陣営(大串の館・源護陣営)があり、平将門が滅ぼした源護の大串陣営もありました。

将門記によると、939年12月15日、大宝八幡宮にて諸国の官職を任命する儀式を執り行い独立国家を宣言します。
このとき、平将門の新皇の位は、大宝八幡宮の巫女より授けられたと伝わります。

大宝八幡宮

とにかく、筑波国あたりの舘跡は、結構、古くから使われていことが多いです。
実際に、大宝八幡宮の社務所の案内板によると、平安時代の1086年の大宝城主として、下津間盛幹の名があります。
4代・下津間弘幹のとき下津間氏は滅亡したようです。
しかし、このサイトでも日本全国の城跡をご紹介しておりますが、1086年が最初の築城ですと、古代山城を除けば平地部にある最古の部類の城跡(館跡)と言えるかも知れません。

大宝八幡宮

1051年からの前九年の役では、安部貞任を討伐した、源頼義が、凱旋した際に、自ら詣でて、田を寄進したとあります。
その後、文治5年(1189年)には、奥州の藤原康衡を討伐した源頼朝が、鎮守府の八幡宮を勧請し、摂社・若宮八幡社を建てました。


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そして、鎌倉時代の1232年、下妻長政が、大宝城を築いたとされますが、改修した、本格的な城にしたと言うのが正しいような気が致します。

下妻長政

下妻長政(小山長政)は、下野・小山城主である小山朝長(1188年~1229年)の次男として生まれました。
小山長村の弟と言う事になります。

下妻長政(下妻修理権亮氏長政)は、祖父・小山朝政のあとをうけて、1230年頃、常陸・下妻郷の地頭となりました。


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それから、下妻氏は続いたようですが、6代・下妻政泰の代には、南北朝時代となります。

下妻政泰

下妻政泰(しもつま-まさやす)の時ですが、1341年11月、常陸国司・春日顕時が、若き興良親王を奉じて常陸・小田城から、大宝城に移り、北畠親房は関城へ移りました。
そして、南朝方の関東六城(常陸・関城・常陸・真壁城・常陸・大宝城・常陸・伊佐城・常陸・中郡城・下野・西明寺城)として、東国における南朝方の拠点となりました。
しかし、足利尊氏が派遣した高師冬から攻撃受け、関城・大宝城の戦いとなり、常陸・関城の関宗祐・関宗政の父子ともに、兵糧不足と寒気のため落城したとあります。

下妻政泰

北畠親房・春日顕国は辛うじて脱出しましたが、小笠原貞宗の攻撃により、大宝城主・下妻政泰は討死したとされます。
4ヶ月後の1344年3月、春日顕国が、大宝城を奪還していますが、翌日には足利勢に奪い返され、捕まった春日中将顕国は京の 六条河原で梟首となっています。
現在、大宝八幡宮の一番奥、本丸とされる場所には、下妻政泰の大きな石碑(贈正四位下妻政泰忠死之地の碑)が建立されています。

下妻政泰忠死之地の碑

その後も、大宝城が使われていたのかは、不明でして、廃城年は不詳となります。

大宝城

大宝八幡宮の本殿は、戦国時代の1575年に焼失しましたが、1577年に、下妻城主・多賀谷尊経が再建しました。
この本殿は、国の重要文化財に指定されています。

大宝八幡宮

江戸時代には、徳川家からは社領115石が寄進されていますが、115石は、結構すごいです。
ちなみに、筑波山・中禅寺(護持院)は、1500石ですので、かなりスゴイですが・・。


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なお、大宝城の遺構は、大宝八幡宮から南の方向、大宝小学校の南側にも、巨大な土塁が残っております。
かなり大きな城跡でも、大部分が失われている城跡が多いのですが、大宝城の場合、南北朝時代の城跡として、うかがい知ることができます。

大宝城の土塁

大宝城の見学所要時間ですが、八幡宮裏手にあるアジサイ園、土塁・切岸・船着場など、全部、歩きで周りますと約1時間。
大宝八幡宮の部分だけでしたら、約20分となります。

交通アクセス

関東鉄道・常総線の大宝駅から徒歩約5分で近いですが、鉄道の本数は少ないのでご注意を。
駐車場は、山門のところにある、だんご屋「ゑびすや」の無料駐車場を、遠慮なく使えます。


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ランチ・昼食も取れますし、他にも保育園前など、無料駐車場が、何箇所もありますので、車でも訪問しやすいです。
当方のオリジナル地図にてポイントております。
北にある、常陸・関城とセットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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