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筑前・大野城【日本100名城】白村江の戦い 大宰府と遣唐使の意義

大宰府と筑前・大野城




筑前・大野城(おおのじょう、おおののき)は大和朝廷が朝鮮からの侵攻に備えて西暦665年から築城した大規模な城郭(古代山城)で、福岡県糟屋郡宇美町四王寺にあります。
この頃、6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国がしのぎを削っていました。
そんな中、日本(倭国)の大和朝廷(ヤマト政権)では、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが、645年に「大化の改新」行い国政改革を進めます。





しかし、朝鮮半島では中国史上屈指の巨大国家である唐(とう)が、新羅(しらぎ)に味方して、660年、ついに百済を攻め滅ぼし、次には日本に侵攻か?と言う危機的状況となります。

百済(くだら)と日本(大和朝廷)は、それまで約300年に渡り同盟関係でもあり、百済王の太子である豊璋王(扶余豊璋、ふよ-ほうしょう)も、実質的な人質として日本に滞在していました。
そのような友好関係もあり、百済の遺臣は倭国(大和朝廷)を頼って援軍を要請します。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済から日本に逃れて来た朝鮮人の難民を快く受け入れるとともに、自ら九州に赴いて指揮を執り、朝鮮半島南部へ軍勢を進めました。

661年5月、第1陣の倭国軍が九州から渡航します。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津であり、豊璋王を引き連れ、船舶170余隻、兵力約1万と伝わります。
662年3月には第2陣となる主力部隊が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)です。
663年、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入していた新羅軍を駆逐することに成功します。
そして、663年8月、朝鮮半島の白村江にてついに「白村江の戦い」となったのです。





白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、船舶による海上での戦いだけでなく、陸上でも激しい合戦になっており、兵力は唐と新羅の連合軍が約18万、倭国は4万2000、百済は5000と伝わります。
倭国は日本から渡航していますので、船舶の数は勝っていましたが、集団的に統率された作戦行動も取れず、大敗北します。
そして、倭国水軍は、倭国の軍勢や、亡命を望む百済遺民を船に乗せ、やっとの思いで帰国しました。





この敗戦を受けて、そのまま大国「唐」による、日本侵攻(九州侵攻)があってもおかしくない状況に陥ります。

そこで、中大兄皇子は、北九州の大宰府を防衛する為、664年から水城(みずぎ)と呼ばれる防衛施設を築いただけでなく、翌665年からは北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(百済式山城)を築城しました。
築城を指揮したのは百済から亡命した憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)などです。

水城には一直線に大きくて長い「土塁」が築かれました。
現代の航空写真でもハッキリとその「線」を見て取れます。

ここで大宰府への侵攻を防ぐと言う防衛施設です。
この長い土塁は高さが14m、幅37m、長さ1kmに渡る「大きな堤」でして、日本の戦国時代でもここまで長くて巨大な土塁はありません。
構造的には「ダム」と考えられており、水を貯えて、敵が進入してきた際には水を流す考えだったようです。
下記は筑前・岩屋城から撮影した水城方面で、緑のラインがその土塁となります。

岩屋城からの展望

ところで、なぜ大和朝廷は、そこまでして「大宰府」を守る必要があったのでしょう?

大宰府

大宰府(だざいふ)はヤマト朝廷が九州を治める為の出先機関であり、また朝鮮や中国大陸との外交も担当する重要機関でした。
写真の背後にある山が大野城と言う事になります。

大宰府跡

九州諸国を大宰府にて統括し、朝鮮や中国との交易・交流も大宰府が拠点となっていたので、ここが敵の手に落ちると言う事は政権が崩壊しかねません。

大宰府

そして、665年には、大宰府の北に大野城、南には基肄城などの城堡(城)が建設開始され、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備しました。

ちなみに、大宰府跡を見学する場合の無料駐車場は下記の地図ポイント地点が入口となります。

2019年5月1日からの新年号「令和」も、この大宰府にて読まれた梅の和歌から引用されました。

筑前・大野城

大野城(おおのじょう)は、大宰府政庁跡の北側背後にある標高410mの四王寺山を中心に築かれた百済式古代山城となります。

その規模は非常に大きく、山頂を中心に尾根から谷を廻る土塁や石塁の城壁は、なんと総延長8.2kmにも及びます。





戦国時代に築かれた小田原城の総構えが約9km、豊臣秀吉大阪城で約8kmですが、これらはいずれも工事しやすい「平地」です。
筑前・大野城は標高400mクラスの山の上に、今から約1400年前に「8キロ」もの土塁・石垣を巡らしたと言う事になりますので、国家の総力を費やした事業であり、いかに侵攻を警戒していたのか良く分かります。

北側に宇美口、南側に水城口と坂本口、東側に大宰府口の計4箇所の城門があったとされ、坂本の大石垣など見どころもたくさんあります。
約70棟の建物跡も発掘されているこの大野城は、いかんせん巨大な為、すべてを見学するのにはそれこそ2時間~3時間と必要となります。
よって、今回はそのほんの一部ですが、岩屋城からも近く、駐車場もあり見学しやすい、大宰府口側の焼米ヶ原だけ見て参りました。

大野城の土塁

焼米ヶ原の駐車場は下記の地図ポイント地点に駐車スペースと、ちょっと中に入ったところにトイレもあります。

下記は大野城の石碑です。

大野城の石碑

焼米ヶ原は、文字どおり、炭化した米粒が発見した場所です。

大野城

規模も大きな土塁がずっと続いています。

大野城の土塁

下記は玄清法印の墓です。

玄清法印の墓

玄清法印は、766年に太宰府に生まれ17歳で失明し盲僧となりると琵琶を弾いて人々を救いました。
比叡山延暦寺の毒蛇退治の功績で「成就院」という称号を受け、最高の僧位「法印」の法号も与えられました。
太宰府で天然痘が流行すると、玄清法印は四王寺山に登って地神陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾き天然痘を鎮めたといいます。
その後、玄清法印は822年に57歳で死去しました。





大野城、基肄城は大宰府近くであり、このように場所が判明していますが、長門城は所在不明で、今でも場所がわかっていません。
ちなみに基肄城(きいじょう)にも約3.9kmの土塁が巡らされています。

これだけ巨費を掛けて大宰府の防衛体制を整え、667年には都(首都)を飛鳥から近江に遷都するまで、大変心配した唐の侵攻ですが、ついに訪れる事はありませんでした。
写真の背景が白く霞んでいますが、これは梅雨時期であったため、雲(霧)となります。

大野城

遣唐使とは

遣唐使(けんとうし)と言うのは、日本が「唐」に派遣した外交使節の事ですが、日本は、中国が隋(ずい)の時代からの遣隋使(けんずいし)を派遣していましたので、その延長と言う事になります。
遣隋使や遣唐使は、海外情勢の調査や、中国の先進的な技術や仏教の経典などの収集が目的とされます。

遣唐使船

派遣(はけん)の「遣」の文字と、派遣先の国名かせ「隋」「唐」、その使者と言う意味で「使」と解説すると、ちょうど学んでいる中学生・高校生には分かりやすいでしょうか?
先に遣隋使で小野妹子が有名ですが、その後の時代が遣唐使と覚えておくと、中国も隋のあとの国家が唐であると理解しやすいと思います。
その遣唐使をやめさせたのは菅原道真です。

なお、唐は巨大国家であったことから、遣唐使(けんとうし)は白村江の戦いの以前から派遣されていました。
しかし、朝鮮半島の情勢が緊迫した653年から669年の間には6度と言う頻度にて遣唐使が相次いで派遣されており、朝鮮半島を巡って心配事が多かったことを伺わせます。

特に、659年の第4次遣唐使は、唐側によって捕縛・抑留されると言う事態となり、日本に戻ったのは釈放された2年後となっています。
この事も、中大兄皇子が百済救援に動いた要員の一つと言えるでしょう。
その後は、唐との関係改善を図るべく遣唐使が派遣され、外交手段でも「倭国討伐阻止」を試みました。
もっとも、仲が良かった唐と新羅が対立するようになり、まだ高句麗攻めも残っていたことから、唐としてはまた日本が朝鮮に軍を送る事を警戒したのか、次第に唐と倭国の触発的状況は緩和されます。
その後、中大兄皇子(天智天皇)が死去すると、669年の第7次のあと702年まで遣唐使は間が空き、日本は壬申の乱の混乱と律令体制確立へと専念しました。

大宰府天満宮からも近い大野城と大宰府、時間が許せば是非お立ち寄りください。

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