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大森氏頼居館【大森氏頼】わかりやすい解説

大森氏頼

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大森氏頼とは

大森氏頼居館は、神奈川県平塚市岡崎にある平城(館跡)で、相模・岡崎城の範囲内にあり、別名は相模・矢崎城とも言いますが、館主である大森氏頼に関してメインとし、記載させて頂きます。
大森氏頼(おおもり-うじより)は、室町時代の武将です。
父は大森頼春で、駿河国駿河郡大森の領主でした。
この駿河・大森氏は、藍沢荘(静岡県御殿場市・裾野市あたり)の土豪で、鎌倉時代中期には、鎌倉幕府執権・北条氏の御内人となり、徐々に勢力をつけていったものと考えられます。
大森頼春の弟には、大森憲頼、大森高頼、大森実雄、有石明訓などがいます。

大森氏頼居館

室町時代の1416年、上杉禅秀の乱になると、駿河・大森氏は飛躍します。
鎌倉公方を補佐していた関東管領上杉氏憲(上杉禅秀)は、13歳くらいで鎌倉公方に就任した足利持氏を助ける立場となりました。
しかし、足利持氏は、山内上杉家・上杉憲定の子である上杉憲基を重用します。
1415年、所領を没収された上杉氏憲(上杉禅秀)が、関東管領を辞任すると、足利持氏は上杉憲基を新しい関東管領に任じました。
そのため、鎌倉公方・足利持氏への不満を募らせた、犬懸上杉家の上杉氏憲(上杉禅秀)は、岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政など関東の諸将を味方にして、反乱を起こしたのです。


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足利持氏・上杉憲基は、鎌倉を急襲されると、駿河に逃れました。
その駿河で頼った先が、駿河・大森氏であり、足利持氏は、生土城に入ったともされます。
また、箱根権現(箱根神社)が、足利持氏を匿ったともされますが、当時の箱根権現の別当は、大森氏一族から出ていたと推測もされます。
足利持氏はこのあと、駿河・今川氏を頼り、瀬名(静岡県葵区)まで避難しました。

なお、室町幕府4代将軍・足利義持は、鎌倉公方・足利持氏を支援し、幕命を受けた越後の上杉房方、駿河の今川範政ら、信濃・小笠原政康らが、討伐軍を発します。
この今川範政の軍勢と共に、駿河・大森氏は行動しており、上杉氏憲(上杉禅秀)らが駿河に攻めて来ると撃退することに成功しています。
そして、箱根を越えて、相模に入ると、土肥氏・中村氏・曾我氏・土屋氏といった上杉禅秀の勢力を駆逐しました。
こうして、上杉禅秀の乱は鎮圧され、上杉禅秀・上杉満隆・上杉持仲は、鎌倉・鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊にて自害となり、足利持氏らは鎌倉に復帰しています。


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この功績にて、駿河・大森氏は、箱根の領有権と、土肥氏の拠点であった相模の小田原付近の加増を受けました。
そして、大森頼春と、子の大森氏頼、大森憲頼らは、相模に移り、小田原城に入ったと言う事になります。
なお、正確には、小田原城ではなく、花岳城を使った可能性もあります。
ちなみに、土屋荘は、大森芳盛(大森式部大輔芳盛)なる、一族の武将に与えられた模様です。

1422年、父・大森頼春から、家督が譲られて、大森氏頼(大森式部少輔氏頼)が当主となりました。
1438年、鎌倉公方・足利持氏と、関東管領・上杉憲実が対立し、永享の乱(えいきょうのらん)になったあと、相模国は扇谷上杉家の勢力が有力になります。
そのため、大森氏頼と子の大森実頼は、扇谷上杉家の当主になった上杉持朝に従いました。
上杉持朝の次男に、大森氏頼の娘が嫁いでいます。
しかし、弟・大森憲頼と、子の大森成頼らは、引き続き、鎌倉公方・足利成氏に味方していたようで、大森氏の一族も分裂したものと考えられます。
1469年に、父・大森頼春が死去。
1476年から、長尾景春の乱となると、弟・大森憲頼と、子の大森成頼は、相模・平塚城にて太田道灌に敗れて、箱根山中に逃亡し没落したとされます。
1486年、その太田道灌も、相模・糟屋舘にて、主君・上杉定正により謀殺されると、大森氏頼と三浦義同が扇谷上杉家の重臣となっています。


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年代は不明ですが、大森氏頼は大森寄栖庵入道と号して隠居すると、相模・岩原城に移り、子の大森実頼に家督と小田原城を譲りました。
大森氏頼は、1494年に死去。
子の大森実頼は、先立って亡くなっていたので、次男の大森藤頼が継承したようです。
ただし、大森氏頼の死後、大森氏に関しては不明点が多いため、その後はよくわからない部分があります。
しかし、以上のことが記載できるようになったのも、最近の事でして、昔は、もっと、不明なことが多い状態でした。

1495年頃、韮山城の伊勢盛時(伊勢盛時・北条早雲)が、小田原城を奪取しますが、この時の小田原城主は、大森藤頼だった可能性があります。
北条早雲により、小田原城を奪われた大森藤頼は、三浦道寸相模・岡崎城に逃れたあと、相模・真田城に入ったとされます。
しかし、1498年頃、北条勢の攻撃を受けて、大森藤頼は自刃したともされ、駿河・大森氏は滅亡となります。

大森氏頼居館とは

と言う事で、相模・岡崎城の一角にある大森氏頼居館ですが、なんで、大森氏頼の名前がついているのか?

なんでも、大森氏が相模に入ると、最初の頃に、大森氏頼は、岡崎の地に居館を構え、防備を兼ねた修禅の場にしたともあります。
逆に申し上げれば、このくらいのことしか、分かっていません。

大森氏頼居館

上杉持朝の次男・三浦高救と、大森氏頼の娘の間に生まれた子に、三浦義同(みうら よしあつ)がいます。
三浦義同は、扇谷上杉家から相模・新井城(相模・三崎城)主・三浦時高の養子に出されますが、1494年、三浦時高の実子である三浦高教と、三浦氏の相続争いとなりました。
当然、大森氏頼は、三浦義同(三浦同寸)に味方しており、相模守護代となった三浦義同(三浦同寸)は、相模・岡崎城を本拠としています。
その頃、北条早雲に敗れた、大森藤頼が、相模・岡崎城に逃れて来たという事になります。


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1512年には、北条早雲によって、相模・岡崎城は攻略され、三浦半島で最後の抵抗を続けた三浦同寸も、1516年に自刃し、三浦氏は滅亡しました。
扇谷上杉家も、山内上杉家との抗争の中、北条早雲によって相模国を失い、上杉朝良の時には、武蔵・河越城にて家督を継いでいます。

駿河に残っていた一族は、駿河・葛山城にて、葛山氏になったものと推測されます。

また、伊勢盛時の子・北条幻庵が、大森氏から箱根権現別当の地位を譲られています。

交通アクセス

大森氏頼居館への行き方ですが、現在の紫雲寺がある場所となります。
周囲の田園よりも、若干、丘のような状態の土地でして、すぐ西側の一帯は、三浦同寸が入る前まで、平安時代から、岡崎義実の岡崎城として使用されていた場所と推定されています。
小田急線の伊勢原駅・南口からに歩いて、約2.9km、徒歩40分といったところです。
バスの場合、岡崎城址入口バス停下車して、180m、徒歩3分となります。
駐車場は、紫雲寺の門を入ったところに、止められますが、遺構などはありません。

相模・岡崎城や、相模・真田城などと、セットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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