目次 Contents
宮津城とは
宮津城(みやづ-じょう)は、京都府宮津市にある平城で、鶴賀城と呼ばれることも多いです。
戦国時代の初めからは一色氏が君臨していましたが、1579年に、織田信長の命を受けた細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城の一色氏を大きく衰退させました。
その戦功にて丹後の半分が細川藤孝に与えられ、勝龍寺城から移って宮津城を新築しました。
普請は明智家も手伝っており、工事の間は、宮津より南にある丹後・八幡山城にいたと言います。
スポンサーリンク
ちなみに、明智光秀は丹波29万石となり、福知山城を築城しています。
ただし、細川藤孝は、すぐに旧丹後守護所の加佐郡八田を「田辺」と地名を変えたうえで、田辺城(舞鶴城)を築いて移っています。
そのため、宮津城には子の細川忠興と細川ガラシャ(明智光秀の娘)が残ったようです。
しかし、同じ宮津城の出城とも言える、市街地の小高い丘にある大久保山城に居住したともされています。
大久保山城(大窪山城)は、標高52m、比高40mの丘城で、一色氏の時代には重臣の小倉播磨守、またはその家来である野村将監などが城主だったと伝わります。
幕末に築いた島崎砲台の土をこの城山から持っていったため、遺構は消滅しているようです。
1582年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、明智光秀の娘を迎えていた細川家は味方すると思えましたが、中立の立場を取ると言う選択をしました。
そのため、細川藤孝は出家して細川幽斎と称し、田辺城にて隠居します。
そして、家督を継いだ細川忠興が田辺城に入りますが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、命を落とすと、細川ガラシャは離縁されて、味土野女城(御屋敷)に幽閉しました。
また、弓木城の一色満信を呼び出して殺害し、丹後12万石を安堵されています。
宮津の街中には、その一色義清が自刃した跡(三の丸)も遺構として残っています。
細川ガラシャは2年後、羽柴秀吉が許してやってはと言う事で復縁しています。
1600年、関ケ原の戦いの時には、細川忠興は、いち早く徳川家康に従いましたが、大坂城下の細川屋敷には、細川ガラシャを残したままでした。
石田三成は、細川ガラシャを人質に取ろうとしますが拒んで、細川家のために命を絶ちました。
一方、田辺城にて、僅かな兵と共に籠城していた細川幽斎は、西軍により包囲されますが、その時、細川家の家臣らは、宮津城を焼いて田辺城に集結したとされます。
現在、宮津はだいぶ市街地化されており、かつて宮津城がどのくらいの規模だったのかは、不明となっています。
ただし、宮津城は宮津湾に面していたようですので、日本海側ではあまり言いませんが、海城と呼んでも良いでしょう。
いざと言う時には、船で脱出できますので、完璧な備えです。
関ヶ原の戦功で、細川家は豊前・中津城に移り39万石となると、小倉城を大改修しました。
変わって、宮津には信濃・飯田城から京極高知が12万3000石で入封しました。
当初、田辺城に入っていますが、焼失した宮津城を建て直して大規模にすると、本拠を移しています。
2代目の宮津藩主になった京極高広は、さらに宮津城を大規模に改修し、本丸に7基の二重櫓も設置しました。
また、城下町も拡大整備していますが、悪政であったとされ、1654年には多くの農民が宮津藩から去っています。
その後は淀城から永井家、岩槻城から阿部家、宇都宮城から奥平家、信濃・飯山城から青山家と宮津城主が替わりますが、1758年、浜松城から松平資昌が7万7000石で入封すると明治維新まで続きました。
宮津城の見どころ
城域に宮津駅もあるなど、明治以降、開発が進んでしまい、現在の宮津城の遺構は乏しいです。
本丸跡の遺構はひとつも残っていませんが、場所としては宮津郵便局の北東にあるNTTビルを中心とした一帯らしいですので、海に面していたようです。
見どころとしては、まず、宮津市立宮津小学校に馬場先御門の太鼓門が移築現存しています。
宮津武田病院の国道わきには、袖石垣の石と、写真手前に大手門礎石があります。
他には、市役所脇の大手川の河川が、白壁の城壁として復元されています。
あと、市役所の南にある「大手川ふれあい広場」には無料駐車場もあり、大村邸長屋門が移築されています。
しかし、駐車場は平日だと言うのに満車で止められませんでした。
公園内に細川ガラシャの像がありました。
この程度ではありますが、北近畿において歴史的には意味深いところですので、是非訪れて頂きたいところです。
観光所要時間は、歩くことになりますので、約60分程度になります。
各史跡がある場所は、当方のオリジナル地図にて分かるようにしてありますので、ご参考賜りますと幸いです。
・建部山城 先祖伝来の地を守り切れなかった一色義道
・丹後・田辺城 約50日間籠城した細川幽斎の頑張り(舞鶴公園)
・弓木城 一色義定や一色義清の最後と鉄砲の名手である稲富祐直
・丹後・八幡山城 細川氏が入った最初の本拠地
・上宮津城 盛林寺にある明智光秀の首塚も
・伊也姫のお噺~本能寺の変により動かされた細川忠興の妹の運命
・細川忠興~文武両道の名将として戦国の世を・・
・細川ガラシャの悲しい生涯を知って頂きたい(明智珠、明智玉)
・味土野女城「細川ガラシャ隠棲の地」
・京極高知とは
・細川幽斎(細川藤孝)~断固たる態度を取った戦国大名
この記事へのコメントはありません。