長野県

信濃・飯田城 伊那地方の拠点となった城跡

信濃・飯田城

信濃・飯田城(いいだ-じょう)は、長野県飯田市にある平山城で、標高は490m、比高は50mになります。
別名は長姫城、三本杉城と言い、松川と谷川の間を細長く東へ伸びた段丘に築かれています。
最初の築城は坂西氏(ばんざい-し)とされますが、鎌倉時代のころから飯田郷の地頭は、足利氏の一族・阿曽沼氏でした。
南北朝時代になると、信濃守護・小笠原貞宗の3男・小笠原宗満が信濃国飯田郷の地頭職を得たようです。
そして、1345年頃、飯田郷三本杉に居館を構え「坂西孫六」と称した模様ですが、諸説あり、坂西氏の最初の出自に関してはよくわかっていません。





その後、坂西宗満の長男・坂西由政(ばんざい-よしまさ)のとき、本拠を信濃・愛宕城に移したようです。
信濃・愛宕城(信濃・飯坂城)とも言いますが、現在の愛宕稲荷神社(飯田市愛宕町)のあたりだったようです。
ただ、ちょっと手狭だったため、坂西長由の頃には現在の飯田城の場所に居館を移しました。
このとき、現在の飯田城の付近は、修験者の修行の場だったことから、土地を交換したとも言われており、山伏丸と呼ばれていた場所には、現在、飯田城温泉「天空の城・三宜亭本館」さんが建っています。

飯田城の本丸は、現在の長姫神社辺りにあったとされています。
ちなみに、長姫神社の手水は温泉水を使用しています。
飯田市立追手町小学校の付近は出丸でした。
そのように考えますと、現在の飯田の「銀座通り」に大きな堀があって、大手門が設置されていたと推測されますが、跡形もありません。





1400年、室町幕府の将軍・足利義満が、信濃守護に小笠原長秀を配すると、国人の領地から勝手に年貢を取ったりしたため、信濃の実力者である村上満信などは反発します。
そして、篠ノ井にて大塔合戦となり、信濃・横田城から信濃・塩崎城に逃れる途中、大塔の古砦に小笠原長秀して敗れています。
自刃して果てたとも、京に逃れたとも言われていますが、この時、若武者・坂西長国(坂西次郎長国)も大塔の古砦に運命を共にしたと言います。
また、1440年の結城合戦では、坂西政忠が、小笠原政康に従って出陣していますので、このように信濃守護に従っていました。

信濃・飯田城

やがて、甲斐の武田信玄が信濃を制圧すると、1554年、坂西政之は武田家に従属しました。
秋山虎繁が、信濃・大島城に入ると、坂西家はその組下となり、軍役60騎を勤めています。

1562年、坂西長忠のとき、信濃・松尾城の小笠原信貴の領地を押領したとされます。
そして、武田信玄に訴えられた結果、武田軍勢と松尾小笠原勢に飯田城は攻撃を受け、坂西一族は討死し、事実上、滅亡しました。
こうして、飯田城には秋山信友が入り、城を改修しています。

信濃・飯田城

その後、1573年には、小田原城の北条氏の斡旋を受けた、坂西長忠の弟・坂西経定(坂西織部経定)なる武将が、信濃・飯田城に入って武田勝頼に仕えました。
坂西経定は、長篠の戦いにも参戦しています。

1582年、織田信長の甲斐攻めにおいて、飯田城は真っ先に攻撃目標となりました。
このとき、飯田城を守備していたのは、保科正直で、織田信忠の大軍が迫ると、城を捨てて高遠城へ逃亡し、仁科盛信とともに籠城しています。
坂西経定(坂西織部)も大平方面へ逃げますが、途中で討ち取られたようで、坂西氏は完全に滅亡しました。

武田勝頼と武田信勝が天目山で自刃しすると、あとから信濃に入った織田信長が飯田城にて首実験したともされます。

信濃・飯田城

その後、毛利秀頼(もうり-ひでより)が、高遠城を与えられて、飯田城を含む伊那郡を統治しました。
この毛利秀頼は、尾張守護であった斯波義統の次男で、赤母衣衆として織田信長に仕えていたようです。
桶狭間の戦いにて、今川義元の陣所を発見した毛利新介の縁者であるとも推測されます。
毛利秀頼は、河尻秀隆森長可にいち早く内応して織田家に寝返っていた下条氏長を飯田城に入れました。(毛利秀頼も一時、信濃・飯田城を本拠にした可能性があります。)
しかし、明智光秀本能寺の変によって、毛利秀頼は尾張へ逃れました。
そのため、信濃は情勢が不安定となり、飯田城は北条勢から攻撃を受けたほか、下条氏も一族で争いとなり、徳川家康の後援を受けた下条頼安・下条康長らによって下条氏長は殺害されたと言います。

信濃・飯田城の案内図

天正壬午の乱のあと、信濃は徳川家康の支配化となり、下条頼安が伊那衆の筆頭となり徳川家に従いました。
その後、下条康長の代となりましたが、上田城の戦いの際にな、徳川陣の陣小屋を焼失したため、寝返りを疑われます。
下条康長の重臣らも、駿府城での尋問に対して、途中で放棄して帰ってしまったことから、下条康長は飯田城内で監禁され、没落しました。





そのため、1587年、知久平城の菅沼定利が、伊那郡代として信濃・飯田城に入って、国衆を統率しました。

1590年、小田原攻めのあと、豊臣秀吉の命にて、徳川家康が江戸城に移ると、毛利秀頼が伊那郡10万石となって、信濃・飯田城に復帰しました。
この毛利秀頼は、朝鮮攻めの際に、肥前・名護屋城にて病没します。
そのあとは、娘婿の京極高知が遺領のうち6万石を継承して、高遠城から信濃・飯田城に移りました。
のち10万石になり、飯田城は近世城郭に改修され、城下町も整備されました。
下記は、飯田合同庁舎の敷地内にある飯田城桜丸御門(赤門)です。(飯田合同庁舎の駐車場を拝借しました。)

飯田城桜丸御門

1600年、関ヶ原の戦いの際に、京極高知は、関ヶ原本戦で大谷吉継と戦った戦功もあり、丹後一国12万3000石が与えられて、丹後・田辺城に入城したあと、宮津城に拠点を移していすます。

そのため、古河城(3万石)の小笠原秀政が、5万石にて信濃・飯田城主となっています。
1613年、本貫地である松本城に8万石で移ったあと、飯田藩は一時天領になりましたが、1617年からは脇坂安元が入封しました。

その後、1672年には、堀親昌が下野・烏山藩から2万石で入封し、以後、堀氏にて12代、明治維新まで続ています。

堀氏は、毎年1月11日に「具足開き」を行い、山伏丸の武具庫4棟にある甲冑や武器を、領民に一般公開したと伝わります。





飯田城への交通アクセス・行き方ですが、JR飯田駅からの場合、観光案内所にてレンタサイクル(貸自転車)を借りると便利です。
クルマの場合ですが、博物館の無料駐車場がありましたので、拝借させて頂きました。

国道153号、飯田バイパスには、信州お菓子の里・飯田城もありますので、カーナビなど混同しないよう、注意が必要です。

お菓子の里 飯田城

時間が許せば、信濃・愛宕城とセットでどうぞ。

信濃・愛宕城 飯田にあった最初の城
信濃・松岡城と松岡貞利~井伊家を救った松岡家は井伊家にまた救われた?
おつやの方と秋山虎繁(秋山信友)~織田家に処刑された命運
高遠城~織田信忠が総攻撃して陥落させた武田の重要拠点
織田信忠~本能寺の変に散った26歳の命
木曽義昌と真理姫の不幸~武田を裏切った木曽家のその後
菅沼定忠と田峯城の復元された本丸御殿と武田勝頼が逃れた武節城~菅沼定利も

 

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