京都府

建部山城 先祖伝来の地を守り切れなかった一色義道

建部山城

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建部山城(たけべやま-じょう)は京都府舞鶴市下福井にある山城で、室町幕府の実力者でもあり丹後の守護大名である一色氏の本拠地でした。
別名は八田城、田辺城とも言います。
標高は316m、比高は310mと、かなり堅固や山城です。

最初の築城は、南北朝時代の1336年に一色範光(一色修理大夫範光が)築城したともされますが、このとき、まだ12歳ですので、なんとも言えません。
他には、1392年に明徳の乱で戦功があった一色満範が丹後守護となり、八田館を守護所として造営するとその背後に詰城として、父・一色詮範と共に建部山城を設けたともされます。
以後、丹後・一色氏の本拠地として栄えました。


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この一色氏(いっしきし)と言うのは、足利氏の一門で、嫡流は三河が本貫ですが、のち伊勢に逃れています。
そして、一色義貫(いっしき-よしつら)は、室町幕府将軍・足利義教(あしかが-よしのり)に討伐されますが、甥の一色教親(いっしき-のりちか)は、伊勢と丹後の守護となり、一色義貫の子・一色義直が継ぎました。

やがて戦国時代を迎えると、相次ぐ合戦で一色氏はしだいに衰退し、丹後守護職の名分も宿敵である若狭の武田元光に奪われ、一色義道は厳しい状況に追い込まれます。

一色義道

一色義道(いっしき-よしみち)は、15代当主・一色義幸(いっしき-よしゆき)の子として生まれました。
1558年、父が隠居したため、家督を継ぐと、弟・一色義清を吉原城に配置し、別の弟・一色昭辰(いっしき-あきたつ)は15代将軍・足利義昭に近侍させました。
また、朝倉攻めなどでは、水軍を率いて織田信長に味方したこともあり、足利義昭を介して、正式に丹後一国を与えられています。
しかし、織田信長が比叡山の焼き討ちを行ったころから、織田家と対立するようになり、つにいは、1578年に、明智光秀細川藤孝の攻撃を受けるようになります。
この窮地に、織田家に寝返る家臣もあとを絶たず、1579年、建部山城(八田城)は落城しました。

一色義道は但馬・山名氏を頼ろうとしますが、丹後・中山城に入った際には、城主・沼田幸兵衛が織田勢に内応したため、38騎の部下とともに自害して果てたとあります。享年47歳。
ただし、細川家の記録では、病死・討死ともなっており、最後は定かではありません。

建部山城

その後、細川藤孝は、良港を抱える八田守護所跡を改修して「田辺城」を築城したため、建部山城は廃城になった模様です。

建部山城は、どの方角から見ても、富士山のように独立峰だとわかるような山ですが、結構大きいです。

建部山城

明治に入ると、天然の良港である舞鶴港には日本海軍の基地が作られました。
そのため、建部山には堡塁が築かれたため、幅3mほどのジグザグに繋がる道路が2.4km伸びており、山頂は平坦にと改良されました。
そして、舞鶴港防衛のための砲台が置かれたと言います。
太平洋戦争では、建部山の山頂に高射砲も設置されました。

建部山城の登城口

交通アクセス・行き方ですが、JR舞鶴線の西舞鶴駅からバスで大和工芸前バス停下車となります。
麓からの散策路は、約60分の登りなると言いますので、登城するのは大変です。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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