京都府

福知山城のみどころ 塩見頼勝・小野木重勝も(続日本100名城)

福知山城

丹波・福知山城(ふくちやま-じょう)は、京都府福知山市にある標高は30m、比高は20mほどの連郭式平山城で別名は横山城、福智山城、掻上城、臥龍城、八幡城とも呼ばれます。
江戸時代の1699年に建造された、複合・連結式望楼型の天守が外観復元されており、続日本100名城にも選ばれました。

最初の築城は不明ですが、戦国時代になり塩見頼勝(しおみ-よりかつ)が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりされています。
この塩見頼勝は、甲斐発祥となる名門「小笠原氏」の祖・小笠原長清の末裔とされる丹波・猪崎城主の小笠原政信(小笠原大膳大夫)の嫡男ですが、生没年は不詳です。
足利尊氏から天田郡を賜って以来、福知山(天田郡)の領主となっていました。
これらのことも含めて、諸説ありますので、申しあげている事が正しいと断言する訳ではありませんこと、ご確認申し上げます。





塩見頼勝は、土師川東岸の微丘陵「朝暉ヶ丘」に空堀と土塁だけの簡素な掻上の城を築くと、龍ヶ城(福知山城)としました。
更に、付近には奈賀山城、茶臼山城、牧城などを築いて支城を構成し、龍ヶ城(福知山城)を本拠と、勢力を拡大しました。
福知山城の写真と共に記載して参りますが、写真はパソコンでクリックしますと拡大致します。

福知山城

塩見頼勝は、細川高国に従っており、1531年4月には、摂津・中嶋の戦いで、細川晴元勢の三好元長らと戦っています。
さらに、1531年7月の天王寺の戦いを経て、尼崎に転進しますが敗れ、細川高国は広徳寺で自刃しました(大物崩れ)。

福知山城

こうして、三好長慶が近畿において実力を付けた結果、三好家の家臣・内藤宗勝が丹波に進出します。
この内藤宗勝と言う武将は、松永久秀の弟・松永長頼で、丹波・八木城を拠点とし、1553年に波多野晴通の八上城を攻撃しています。
これに対して塩見頼勝は、次男・奈賀山長員を奈賀山城に入れ、3男・塩見利勝を猪崎城、4男の和久長利を和久城、5男・牧利明を牧城に置き対抗しました。

福知山城

しかし、1565年には、逆の方角の黒井城主・赤井直正からの侵攻を受けます。
このとき、内藤宗勝の援軍をもらいましたが、1565年8月2日、和久郷での決戦において塩見頼勝は討死しました。
更に、赤井直正は鬼ヶ城も攻めて、内藤貞勝を討ち取ったとされます。

福知山城

なお、家督を継いだ子の塩見頼氏は横山大膳と称して横山氏に改名しました。
そして、城の名前も横山城(福知山城)と変え、弟・塩見利勝が塩見氏を引き続き称したともされています。

福知山城

ただし、塩見頼勝が死去する前から、横山氏に改名していた可能性もあります。
いずれにせよ、塩見一族は没落したようですが、家名は存続した模様です。

福知山城

その後、織田信長が台頭してくると、1576年に明智光秀が丹波へ侵攻します。
このとき、塩見頼氏の子・塩見信房は、赤井直正・波多野秀治の軍勢と行動を共にしており、黒井城の戦いにて、1度は明智光秀を撃退しました。
しかし、1578年に赤井直正が病死し、波多野秀治の丹波・八上城も1579年に落城すると、黒井城もその2ヶ月後に落城しました。
そのため、すぐに横山城(福知山城)には、丹波・金山城から明智勢の矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門、四王天政春、林半四郎らが押し寄せました。

福知山城

塩見信房と弟・塩見信勝は自刃して果て、山家城の和久利明も火を放たれて敗れ、帰農しました。
猪ノ崎城の塩見利勝は自ら火を放ち、逃げる途中に林半四郎らに捕捉されて討死しています。
こうして、塩見一族は滅亡しました。

明智光秀は丹波国を平定すると、横山城を「福智山城」と改名し、大修築を開始します。

福知山城

天守の東側には「豊磐の井」(とよいわのい)と呼ばれる、深さ50mの井戸があります。
城郭内にある井戸としては、この深さは日本一ともされ、今でも清らかな水を湛えていますので、ぜひ、覗いてみてください。

豊磐の井

天守台や本丸跡の石垣は穴太積(あのう-づみ)言う積み方になっています。
反抗的な社寺は打ち壊し、五輪塔・宝篋印塔などの石塔類を天守台の石垣に利用(転用石)したと伝わります。

福知山城の転用石

実際に、天守周りの石垣には、転用石が多く見受けられますが、全部で500個以上、確認されているそうです。

福知山城の転用石

どちらかと言うと、織田信長よりも優しいイメージがある明智光秀ですが、ここでは信長同様の非道さも垣間見えますが、戦国と言う時代が、そうさせたのでしょうか?

福知山城の転用石

実際に、明智光秀を恨む文章も残されていますが、後日になって明智家が代わりの石を寄進したとする文書も発見されていることから、単に、築城を急いだだけなのかも知れません。
ちなみに、ハートストーンと呼ばれるハート型の石垣も6つほどあるそうです。

福知山城の転用石

明智の支配となり城主には藤木権兵衛を入れますが、1581年からは明智秀満を配置しました。

明智秀満(あけち-ひでみつ)は、明智一族とされ、織田信長を討つ本能寺の変を実行するかどうか?、相談した重臣とされます。
1582年、本能寺の変で、明智秀満は出陣し、福知山城の留守居は、父(名前不詳)が務めたと言います。

福知山城

織田信長・織田信忠を討ったあと、明智秀満(明智左馬助)は安土城の守備を任されたことから、安土城に火を放った人物ともされています。
羽柴秀吉との山崎の戦いでは、援軍として駆けつけ、堀秀政と戦いましたが、そのあと坂本城に入っています。
明智光秀も命を落としたと知ると、坂本城に火を放ち自刃して果てました。享年47とされます。
また、福知山城の父は羽柴勢によって連行され、京の粟田口にて処刑されましたが、享年63とされています。

福知山城からの展望

なお、明智光秀は「南光坊天海」になったとする説がありますが、この明智秀満こそ天海大僧正だとする説もあるようです。

清洲会議にて、織田信長の4男で、羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝に丹波が与えられ、丹波・亀山城を本拠としました。
福知山も領内となり、羽柴秀勝の配下で豊臣一族の杉原家次が福知山城に送られています。
しかし、1584年に病没し、田中吉政が一時入ったあと、時期は不明(1583年とも?)ですが豊臣秀吉の直参・小野木重勝が福知山城主になりました。

福知山城からの展望

小野木重勝(おのぎ-しげかつ)は、1565年生まれですが出自は不明な点が多いです。
赤井直正に討たれた丹波・福岡城主である兎ノ木縫殿介の一族とする説もあります。
若いころから、長浜城で羽柴秀吉に250貫文で仕え、黄母衣衆、大母衣衆として活躍しました。

福知山城からの展望

1584年になると、小牧・長久手の戦いでは、伊勢・神戸城や、山城・淀城の守備を任されています。
どちらかと言うと奉行肌だったようで、石田三成と美濃で検地も務めました。
小野木重勝の正室は、石田家の重臣・島清興の娘とされます。

その後、小田原攻めや朝鮮攻めにも参加し、1595年には福知山城のまま4万石とあります。
小野木重勝らは15000にて、徳川家康に味方した細川幽斎が500で籠城した丹後・田辺城を攻めました。
しかし、1ヶ月以上経過しても落とせず、結果的に和議に持ち込んでいます。
ただし、その和議をした頃には、既に関ケ原の本戦となり、15000の兵を有効活用できず、石田三成は敗れました。
そのため、小野木重勝は大砲など武器を捨てると慌てて戦場を離れて、井伊直政や前田茂勝を通じて徳川家康に助命嘆願をしています。





その後、徳川家康の許しを得た細川忠興木下延俊、山家城の谷出羽守、藤掛永勝、川勝秀氏らと共に、福知山城を攻撃しました。
こうして小野木重勝は捕縛され、亀山城下の寿仙院で切腹となりました。(享年38)
夫の訃報を聞いた正室も自刃したと言います。

そして、遠江・横須賀城から福知山城に入ったのは8万石となった有馬豊氏になります。
初代の福知山藩主となった有馬豊氏は、福知山城を改修し、更に城下町も整備しました。
大坂の陣でも活躍すると、1620年に久留米城に21万石で加増移封となり、代わりに、丹波・亀山城から岡部長盛が入りました。
そのあとは、稲葉紀通、松平忠房と藩主が変わりますが、1669年になると、土浦城からの朽木稙昌が入部すると、約200年間、明治維新まで朽木氏が福知山藩主を務めました。
現在の天守も朽木氏の時代である絵図に基づき外観復元されたものです。

福知山城

福智山の漢字が、福知山になったのも江戸時代のことです。
なお、江戸時代後期の1864年(元治元年)、福知山の町人は3500人、家屋数は980軒との記録もあります。
人数は藩士とその家族も含めたら、街中には5000名程度はいたのではないでしょうか?

福知山城からの展望

明治になると、本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣の石垣と銅門番所(あかがねもん)だけが残ったと言います。
その銅門番所は、二の丸の登城路にありましたが、天守を復元した際に、今の場所に移築されました。

福知山城・銅門番所

なお、明智光秀の統治期間はわずか3年でしたが、由良川の治水工事を行い、土地を開墾し、町並みも整備されたことから、地元では今でも明智光秀の人気は高いようです。
由良川は、水害をもたらす暴れ川でしたが、明智光秀によって現在の流れになったと言います。
そして、由良川の水運にて商業も発展し、更に楽市楽座により多くの商人が集まり、城下町が大きくなりました。
現在では、特に「スイーツのまち」として知られており、戦国ファンに人気の「明智茶屋」もあるそうです。

今の福知山城は、堀の代わりに、住宅に囲まれていますが、外観復元の天守も、寄付金などで賄い、福知山市の財源からは支出していないと言いますので、素晴らしいですよね。





春には桜が満開となり、また違った風情を楽しめます。
2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」ですので、楽しみですね。

下記は、福知山城の城門を移築しされたもので、明覚寺にあります。

福知山城の城門

もうひとつ、法鷲寺(ほうじゅうじ)の山門も、福知山城の城門が移築されたものなのですが、苦労して、グルグルと車で狭い道を曲がって撮影したのですが、お寺さんがいくつも並んでいるところでして、お隣の寺門を撮影してしまいました。
そのため、明覚寺の山門だけで、申し訳ありません。

福知山も歴史が深く、記述が長くなりましたが、福知山城は有料拝観となります。
天守閣の入口にて料金が必要なパターンです。
定休日が火曜日(祝日の場合は翌日)ですので注意が必要です。
あと、年末の12月28日~12月31日と、年始の1月4日~1月6日がお休みとなります。





開催時間・営業時間は、朝9時~17時(ただし入館は16時30分まで)
福知山城(福知山市郷土資料館)の入場料金は大人320円、小・中学生100円、幼児無料となります。
続100名城のスタンプがあるのも資料館になります。

交通アクセス・行き方ですが、JR福知山駅から京都交通バスで5分、または駅から徒歩で15分となります。
車の場合、城の東側にある福知山城公園観光駐車場(60台)が無料です。
駐車場がある場所は、当方のオリジナル地図でもわかるようにしてあります。
春には桜も良いのではないでしょうか?

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攻略難易度
初心者向け
旧国名
丹波
著者コメント
駐車場もあり訪問しやすい立派なお城です。




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