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三河・沓掛城の解説~近藤景春の居城で今川勢が桶狭間に向かった出陣地

沓掛城

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三河・沓掛城とは

三河・沓掛城(沓懸城)(くつかけじょう)は、知県豊明市沓掛町にある平城です。
交通の要所でもあることから、最初の築城は古かったものと推測されますが、鎌倉時代末期に後醍醐天皇が近藤宗光なる沓掛の住人が認められます。

沓掛城

この近藤氏は、多くの坂東武者と同じく藤原秀郷の子孫を称しているため、相模・近藤氏(波多野氏)の庶流と考えられます。

近藤景春

戦国時代の武将としては沓掛・近藤氏の第9代になる近藤景春(こんどう かげはる) がいます。
近藤景春は松平広忠の家臣でしたが、松平氏が衰退すると勢力を拡大していた織田信秀に従いました。

近藤景春

しかし、1552年、織田信秀が死去して織田信長が家督を継ぐと、織田家から寝返った鳴海城主・山口教継の調略を受けて近藤景春は今川に転じました。
大高城も今川に落ちたため、織田信長は丸根砦鷲津砦を築いて今川氏を牽制しています。
1560年、大高城・沓掛城を調略にて奪取した山口教継・山口教吉の親子は、駿河へ呼び出されて切腹。
そして西上開始した今川義元は、池鯉鮒から沓掛城に入ります。


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この時、近藤景春は沓掛城を今川家の浅井政敏に明け渡していてようで、支城の高圃城にて指揮をとっていたようです。
今川義元は沓掛城で軍議を開くと、松平元康(徳川家康)には大高城への兵糧入れなどを命じたと考えられます。
沓掛城が最後の夜であったとは夢にも思わなかったことでしょう。

沓掛城

その後、今川義元は桶狭間に入りましたが、豪雨の中、織田信長の軍勢から急襲を受けて討死するのでした。
近藤景春は沓掛城に帰還すると、刈谷城を攻撃したようですが、まもなく織田勢の襲撃を受けて近藤景春は討死。

沓掛城

勲功一番と称された織田家の家臣・簗田政綱が3000貫文にて沓掛城を与えられています。
1575年、簗田政綱は加賀・天神山城を与えられ、子の簗田広正(戸次広正)も大聖寺城に入っています。
そのため、織田信照や川口宗勝が沓掛城主を勤めた模様です。

沓掛城

1600年、関ヶ原の戦いにて、川口宗勝は西軍の石田三成に味方します。
安濃津城攻めなどに参加しましたが、西軍が敗れると高野山に蟄居。
所領は没収され身柄は伊達政宗に預けられました。
以後、沓掛城は使われなくなったようです。

沓掛城

現在の沓掛城跡は、本丸址、土塁、内堀などが残っており、沓掛城址公園として公園整備され、トイレも完備されていました。
春には桜の名所にもなっているようです。

沓掛城

沓掛城の見学所要時間は10分~20分程度あれば充分です。

交通アクセス

沓掛城への行き方・交通アクセスですが、名鉄・名古屋本線の前後駅から徒歩40分です。
駐車場は公園の北側にあります。


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駐車場の場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイント致しております。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能です。(徒歩カーナビとしても可能)

このあとは善照寺砦に向かいました。

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城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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