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刈谷城の解説 織田・今川の間で生き抜いた戦国大名の城

刈谷城の桜2




三河・刈谷城とは

刈谷城(かりや-じょう)は愛知県刈谷市にある平城です。
当初は刈屋の文字が当てられていたようですが、昭和25年(1950年)に刈谷市が市施行を行ってからは『刈谷』と表記されるようになっていますので、ここでは刈谷の表記で統一していきたいと思います。





別名を亀城とも呼ばれる刈谷城は、城の西側に境川が流れており、内陸部にありながらも、川の水を取り入れた水城の性格も持つ城となっています。
境川は文字通り尾張と三河の境を流れる川で、矢作川と共に天然の良港である三河湾に注ぎ込んでおり、上流の平野部で生産される作物の流通を担っていたため、その支配権を巡って川沿いには多くの城や砦が築かれました。

刈谷城模型

◆刈谷城の模型

刈谷城は境川とその支流である逢妻川が合流する地点の西岸(尾張国)に位置する緒川城(おがわ-じょう)を拠点として知多半島北部一帯を支配している水野氏が西三河で力を持つ松平氏と縁を結び、川の東岸に築いた城になります。

刈谷城の歴史

緒川水野氏は小河郷の地頭職に任じられて小河氏を称していましたが、南北朝時代に入ると尾張の守護大名である土岐氏の攻撃を受け敗北し、残された一族は尾張水野氏の発祥地とされる春日井郡水野郷へと移り、水野姓へと復したと言われています。
その子孫である水野忠義(みずの-ただよし)は故地の知多郡小河に戻り、土岐氏の襲来に備えながら勢力を蓄えていきます。

文明17年(1485年)水野忠義の跡を継いだの水野貞守(みずの-さだもり)は境川を渡り、東岸の小高い地に砦を築きます。
この城は現在は刈谷古城と称し、その南側には大宝年間(701年-704年)の創建と伝わる本刈谷神社が鎮座しています。

水野貞守の曾孫にあたる水野忠政(みずの-ただまさ)の代になると知多郡大野の佐治氏や渥美郡の戸田氏と争いながらその勢力を広げていく中、天文2年(1533年)水野忠政は刈谷古城から1km程北の金ヶ小路(かねがしょうじ)に新たな城を築き三河側の拠点としました。
この城が現在の刈谷城となります。

本丸城址碑

◆本丸跡に残る城址碑

少し話題は逸れますが、刈谷城築城当時は現代と異なって物流は人力か牛馬を使った荷車などが基本で、それ以上の物量は船での輸送となります。
天文12年(1543年)に種子島に鉄炮が伝来した事からも判るように、世界的に見ても船舶の航行技術は進歩しており、物品の大量輸送が行われ始めた為、川と街道の交わる地には交易の拠点となる市場が出来始め、そこから上がる利益をる為にその地を支配する豪族達は多くの城館を築いていき、その規模を拡大していったと思われます。

水野家は緒川城の南に平安時代以前から塩の生産地として有名な生道郷を有しており、延喜式には『生道塩一斛六斗与調塩共進自余輸絹絲塩』と記されています。
生道郷を直接支配する長坂氏は古来より塩の生産と販売の権利を有しており、室町末期には長坂弥右衛門守勝が連歌士の里村紹巴を招いて連歌会を主催するほどの財力を持っていたようで、緒川水野氏の菩提寺である乾坤院にも多額の寄進を行っています。





刈谷城を築いた水野忠政は境川と逢妻川を航行する船舶と塩田から得た財力を背景に力を付けて行くと同時に、西三河一帯に勢力を持つ松平氏と通婚によって関係を深めて行き、天文10年(1541年)には亀崎城(かめざき-じょう)主の稲生政勝(いのう-まさかつ)に宰領させ、娘の於大の方松平広忠(まつだいら-ひろただ)へと嫁がせ、翌年に於大の方は竹千代を出産します。
竹千代は後に徳川家康(とくがわ-いえやす)となり天下を掌握し徳川幕府を開きますが、於大の方の縁が徳川政権下で水野氏を幕閣にも参画する譜代大名として繁栄させる一因となった事は間違いないと思われます。

松平家との縁を深めていく水野家でしたが、天文12年(1543年)に水野忠政が死去し、次男の水野信元(みずの-のぶもと)が跡を継ぎます。
当時の松平家は尾張の織田家と駿河の今川家の間に挟まれ勢力は衰退の一途をたどっており、岡崎城を中心にした松平宗家の求心力は低下し、今川家に従う宗家(松平広忠)から離反して織田家と縁を深める諸家も出てきていました。
その中の一つ桜井松平家の当主である松平信定(まつだいら-のぶさだ)は松平広忠の祖父にあたる松平信忠(まつだいら-のぶただ:松平宗家6代目)の弟にあたり、人望の少なかった松平信忠に代わって当主に押された事もある人物ですが、娘の一人を水野信元の正室として嫁がせていた他、織田信秀(おだ-のぶひで)の弟にあたる織田信光(おだ-のぶみつ)にも娘を嫁がせており、宗家との対立を深めていました。

水野家の当主となった水野信元は、衰退著しい松平宗家(親今川家)との縁を切り、尾張で勢力を拡大する織田信秀と縁の深い桜井松平家(妻の実家)を通じて織田家に付く事にしたため、天文13年(1544年)松平広忠に嫁いでいた於大の方は離縁され、刈谷城の東にある椎の木屋敷(しいのき-やしき)に居住していましたが、3年後の天文16年(1547年)には知多半島中部で平安時代から勢力を持つ久松氏への元へと再嫁して行きました。
なお、江戸時代は椎の木屋敷の敷地内に一般の人々が入る事は許されず、定期的に掃除と手入れをする役目の人のみが門を開けて敷地内に入っていたと伝わっています。

椎の木屋敷
◆椎の木屋敷

刈谷城と緒川城の2城を拠点とし、背後を織田信長に守られながら知多半島一帯を席巻していった水野氏でしたが、東から今川氏の勢力に押され天文23年(1554年)には重原城(しげはら-じょう)が落城。
今川勢は重原城を拠点として緒川城を攻略するべく村木砦(むらき-とりで)を築きますが、織田鉄砲隊の奇襲を受けて敗退します。

村木砦の戦いでは一時的に敗退した物の、永禄3年(1560年)に今川義元自ら率いる軍勢が上洛を目指して進軍してくると、東海道の抑えとして立ちはだかっていた牛田城(うしだ-じょう)も落城し、水野氏の一族が守る大高城(おおだか-じょう)も今川軍の軍門に下ったため、今川義元は本隊を率いて沓掛城(くつかけ-じょう)を経て尾張へと進軍しますが、織田信長の奇襲を受けて首を取られます。これが世に言う桶狭間の戦いです。
この戦いで水野信元は表面上は織田方の立場として振舞っていましたが、今川軍の侵攻を名目にして積極的に戦わずに甥の松平元康を通じて今川方とも連絡を取り、勝った方に付くと言う状態を決め込んでいた節があります。





桶狭間の戦いで今川義元が討死すると今川軍は四散しますが、鳴海城(なるみ-じょう)の城代となっていた岡部元信(おかべ-もとのぶ)は孤立しながらも織田軍の攻撃をことごとく撃退し、主君である今川義元の首と引き換えに開城を申し入れ、織田信長はその戦いぶりと忠義に感動して今川義元の首級を丁重に送り届けて退却を見送ったと言われています。
岡部元信は今川義元の棺を先頭に立てて鳴海城から引き揚げますが、水野信元の弟である水野信近が守る刈谷城を100人余りの手勢で焼き払った上で城主の水野信近を討ち取りますが、味方の今川軍は撤退していたため援軍を得る事ができずに駿河まで退却していきました。

刈谷城は水野信元が奪還し、水野家は佐久間信盛(さくま-のぶもり)の与力として各地の戦いに参陣しますが、天正3年(1575年)に水野信元は佐久間信盛の讒言によって武田信玄との内通を疑われて三河大樹寺にて謀殺され、刈谷城は佐久間信盛の所領とされます。
本来ならば水野家の旧臣らを取りたてながら領地を管理していくのですが、佐久間信盛は知行を自らの直轄とし収益を金銀に換えているなどの十九ヶ条の折檻状を織田信長から受け、天文8年(1580年)に追放されたため、徳川家康の元にいた水野忠重(みずの-ただしげ)を召し出して水野家を継がせて刈谷城主としました。

二の丸城址碑
◆二の丸に立つ城址碑

織田信長の直臣となった水野忠重は、本能寺の変で織田信長が死去した後は織田信雄(おだ-のぶかつ)、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)と主を変え、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では徳川家康率いる東軍に属していましたが、合戦直前に三河知立で堀尾吉晴(ほりお-よしはる)を歓待して酒宴を催した際に同席した加賀井重望(かがのい-しげもち)と口論になった末に殺害されます。

この時、嫡男の水野勝成(みずの-かつなり)は会津征伐に従軍していましたが、徳川家康の命を受け刈谷城へと帰還。3万石の藩主として刈谷城を近世城郭に改築。寛永9年(1632年)に水野忠清(みずの-ただきよ)が吉田城(よしだ-じょう)に移封されるまで水野氏の城としてあり続け、深溝松平、久松松平の治世から幕府直轄領を経て、稲垣、阿部、本多、三浦らの譜代大名が短期間の入れ替わりで藩主になった後、延享4年(1747年)に土井利信(どい-としのぶ)が2万3000石で入封した後は土井家による支配が定着して幕末を迎え、刈谷城は破却されました。





明治以降、城地は払い下げられ大半は私有地となりますが、昭和11年(1936年)刈谷町が公園として整備。第二次世界大戦が始まると軍の高射砲陣地が置かれ老木などは伐採されていきます。
戦後は公園として再度整備が始まり、桜の開花時期には多くの花見客で賑わいを見せ、愛知県内でも有数の桜の名所としても有名になりました。

刈谷城の桜
◆この花見時の写真は2018年に撮影した物です

平成に入り刈谷城の復元計画も開始され、平成31年(2019年)に刈谷市歴史博物館が開館、令和3年(2021年)現在は発掘調査と並行して隅櫓や石垣の復元が予定されている他、刈谷市内各所には刈谷藩主22代のラッピング自販機が設置され、売上の一部が復元費用に充てられています。

※ラッピング自販機に関しましては、令和3年現在では4台の所在が判明しております(投稿者調べ・位置は後述)
他18台の所在の情報をお持ちの方がお見えになりましたら、コメントをお寄せいただけると幸いです。

交通アクセスと登城

刈谷城址はJR東海道本線逢妻駅と名古屋鉄道三河線刈谷駅の中間に位置し、どちらの駅からも徒歩約15分程度で到着します。
自家用車で訪問する際は、敷地内に立つ歴史博物館(入館無料)と体育館にある無料駐車場を利用してください。





推奨ルート
刈谷市歴史博物館→(徒歩6分)→刈谷城址→(徒歩2分)→刈谷市郷土資料館・三の丸の碑→(徒歩1分)→刈谷城大手門の碑→(徒歩4分)→椎の木屋敷

・刈谷市歴史博物館
刈谷市逢妻町4-25-1

・刈谷城跡
刈谷市城町1-49
本丸の城址碑とは別に南東の城町交差点角にも城址碑があります。

・刈谷市郷土資料館(駐車場無)
刈谷市城町1-25-1
資料館入口脇に刈谷城三之丸跡の碑が建てられています。

・刈谷城大手門の碑(亀城小学校南の道路脇)
刈谷市司町3-18

・椎の木屋敷(駐車場無)
刈谷市銀座6-58-1





●その他関連施設等
・刈谷古城
刈谷市天王町2丁目
畑地となっており、遺構等は存在しません

・緒川城
知多郡東浦町緒川古城
小公園内に土塁の一部が現存している他、於大の方出生地の碑が建てれています

・楞厳寺(りょうごんじ)
刈谷市天王町6-7
刈谷水野家の菩提寺

●ラッピング自販機
初代:水野勝成
刈谷市体育館前の公園内

初代水野勝成側面
◆自販機の側面

初代水野勝成
◆水野勝成の略歴

2代:水野忠清
刈谷市市役所敷地内

2代目水野忠清
◆水野忠清の略歴

10代:本多忠良
JR刈谷市駅南口

10代目本多忠良
◆本多忠良の略歴

14代:土井利信
名古屋鉄道富士松駅北口

14代目土井利信
◆土井利信の略歴

(寄稿)だい

村木砦の解説「信長鉄砲隊初出陣」村木砦の戦い
三河・西尾城の解説~二の丸に天守があった珍しい城

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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