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鳴海城の解説~山口教継が守備した織田勢による桶狭間の拠点

鳴海城

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海城とは

鳴海城(なるみじょう)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町城にある比高15mほどの平山城である。
別名は、尾張・根古屋城とも言う。
眼下には東海道が巻いていることから交通の抑えでもあったのだろう。

鳴海城

室町時代の応永年間(1394年~1427年)、足利義満に仕えていた安原宗範が築いたとされる。
その際に、山にあった成海神社が、北の乙子山に移されたと言う。
しかし、安原宗範の死後、鳴海城は一時廃城になったようだ。


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戦国時代に入ると、今川家との争いから織田信秀が改修し、家臣の山口教継が鳴海城主となった。

鳴海城

山口教継(やまぐち のりつぐ)は、尾張・桜中村城主である山口教房の子として生まれた。
織田信秀のもとでは、小豆坂の戦いなど今川勢との合戦で武功を挙げている。

鳴海城

しかし、1552年、織田信秀が死去し、うつけと言われていた織田信長が家督を継ぐと、鳴海城の山口教継は織田家から離反。
1553年4月17日、19歳の織田信長は約800の軍勢にて鳴海城を攻撃したが、約1500の山口勢と「赤塚の戦い」となったが引き分けとなっている。

鳴海城

このあと、山口教継は調略を行い、大高城沓掛城を今川勢の支配と変えた。
そして、山口教継は桜中村城に入り、鳴海城は子の山口教吉に任せている。
そのため、織田信長は丸根砦鷲津砦を築いて、大高城から今川氏への連絡を遮断した。


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1559年(1600年?)に、山口教継・山口教吉の親子が駿河に呼び出されて切腹すると、鳴海城には今川家の重臣・岡部元信が入った。
<注釈> 織田信長の策略で山口氏は切腹することになったとも。
織田信長は鳴海城を囲むように、丹下砦・中島砦・善照寺砦を築いている。

1560年、桶狭間の戦いにて今川義元が討たれるた後も、鳴海城の岡部元信は降伏せずに抵抗を続けた。
最終的には、主君・今川義元の首と引き換えに開城交渉に応じたため、織田信長はその忠義に感動し、今川義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けと言う。
そして、駿河に戻ると思いきや、約100の手勢で刈谷城を急襲すると城を焼き払い、水野信近を討ち取っているのだからこの岡部元信と言う武将はただ者ではないと言えよう。
今川氏真は岡部元信に感状を与えている。

織田信長の支配になると、善照寺砦を守備していた佐久間信盛・佐久間信栄の親子が鳴海城に入った。

鳴海城

現在、鳴海城跡公園があるが特に目立った遺構は残されていない。
鳴海城から東にある天神社に鳴海城址碑と説明板がある。

交通アクセス

名鉄・名古屋本線の鳴海駅から350m、徒歩5分と近い。
駐車場はありませんが、鳴海街道にコインパーキングがあったので利用致した。


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鳴海城の場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩カーナビとしても可能)

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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